ロイ・キャンパネラ


1937年に15歳でニグロリーグのワシントン・エリート・ジャイアンツに入団。1942年と1943年はメキシコリーグでプレー。1946年にキャンパネラドジャースとマイナー契約。1947年は3A。1948年は開幕2A。シーズン後半にはメジャー定着。

キャンパネラは、ジャッキー・ロビンソン がデビューした翌年の1948年 、26歳でドジャース昇格。メジャーリーグでも、その打力に加え守備、強肩など総合力の高さを発揮、1949年には打率2割8分7厘、22本塁打、82打点。オールスターゲーム、ワールドシリーズへの出場。

1951年には、打率3割2分5厘、33本塁打、108打点でリーグの最優秀選手。1953年には打率3割1分2厘、41本塁打、142打点で打点王と二度目のMVPを獲得3度目のMVPは1955年で、打率3割1分8厘、32本塁打、107打点を記録。同年のワールドシリーズでは、ヤンキースと対戦、キャンパネラは第3戦と第4戦にホームランを放って対戦成績をタイに持ち込み、念願だったワールドシリーズ制覇を達成。王冠1

1957年シーズン最終戦、キャンパネラドジャースのエベッツ・フィールドでの最終戦に出場。この年のオフに、キャンパネラは交通事故が元で現役を引退。

1958年のシーズン開幕前に交通事故叫び。この事故でキャンパネラは下半身麻痺となり、以後ずっと車椅子での生活。

1959年にはヤンキースとの引退試合が挙行され、キャプテンのピー・ウィー・リース が押す車椅子に座ったキャンパネラが登場すると、本拠地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを埋めた93,103人の大観衆は、一度もロサンゼルスでプレイすることのなかった名捕手に大歓声と総立ちの拍手を送ります。この試合は、メジャー史上最多観客を記録した試合として半世紀近く記録に残りました。今の記録は同じロサンゼルスですが、2008年3月29日 、ドジャースのロサンゼルス移転50周年を記念したエキシビジョンが同じロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催され、米国スポーツ史上最多、そして世界の野球史上でも最多となる115,300人の観客を動員したもの。相手はレッドソックス

1969年 、投票によりアメリカ野球殿堂入り。1971年にはメキシカンリーグの殿堂入り。1972年6月4日には、彼の背番号『39』が、サンディ・コーファックス と共にドジャースの永久欠番に指定。

1993年に心臓発作のため、カリフォルニア州ウッドランドヒルズの自宅で死去。

ドジャースは、2006年9月に球団の所属選手・コーチらの投票により、最も勇気とリーダーシップを発揮したドジャース選手を選出する「ロイ・キャンパネラ賞」の創設を発表。


ドジャースは伝統的に名捕手を輩出することで知られています。マイク・ソーシア や、マイク・ピアッツァラッセル・マーティン らはその一例でしょう。そのさきがけはこのキャンパネラでした。事故さえなければ、ベーブ・ルース のシーズン本塁打記録を更新していたのはキャンパネラだったとも言われています。ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムはレフトまでの距離が76メートルしかなく、高々と綺麗なアーチを描くキャンパネラの打球は高さ12メートルのスクリーンも苦にしなかっただろうと・・・。


<最終更新日 2013年2月3日>