レッドソックスファンの好事家ブログ




ロベルト・アロマーはプエルトリコ出身。父はサンディー・アロマー・シニア、兄はサンディ・アロマー・ジュニア という野球一家に生まれます。6歳の時にあるスカウトが「今すぐ契約してくれ」というほど才能に恵まれていました。

1985年、兄が所属するサンディエゴ・パドレスに入団。1988年4月にメジャーデビューし、レギュラーに定着。当時父のシニアもコーチとしてチームに所属しており、9月に兄もメジャー昇格を果たしたことで父子3人揃い踏み。この年、145試合に出場し、24盗塁をマーク。1990年にはオールスターゲームに初めて選出。

1990年12月にジョー・カーターとともにトロント・ブルージェイズへ移籍。移籍1年目の1991年から6年連続でゴールドグラブ賞を受賞。1992年には打率3割1分を記録。打率、105得点、49盗塁はチーム1位となり、シルバースラッガー賞を初受賞。チームはプレーオフに進出し、アトランタ・ブレーブスを破り、球団初のワールドチャンピオン王冠1となった。1993年もワールドチャンピオンとなり連覇に貢献。王冠1ブルージェイズ在籍中は本拠地のスカイドーム併設のホテルに居住。94年、95年にはアメリカンリーグ二塁手記録の104試合連続無失策を記録。

1995年シーズン終了後FA宣言をし、ボルチモア・オリオールズへ移籍し、カル・リプケン と二遊間を形成。1996年は打率3割2分8厘、1997年は打率3割3分3厘と2年連続で自己最高を更新。1998年は打率2割8分2厘と3割を下回ったが、オールスターゲームでMVPを受賞し、昨年の兄に続いての受賞。

しかし、1996年9月27日のブルージェイズ戦で判定に憤り、球審のジョン・ハーシュベックの顔にツバを吐いて批判の的に・・・。叫び審判団はプレーオフのボイコットを計画。プンプンそのため翌1997年は開幕から5試合の出場停止。アロマーとハーシュベックは後に和解し、ハーシュベックの子供のためにアロマーが慈善活動をしているとか・・・。

1999年から2001年まで在籍したクリーブランド・インディアンスでは遊撃手オマー・ビスケル と鉄壁の二遊間を形成。2人とも3年連続でゴールドグラブ賞を受賞。1999年と2000年の2年連続でシルバースラッガー賞を受賞。1999年にはインディアンス史上初の20本塁打、100打点、100得点、30盗塁以上を記録。2001年は受賞を逃したものの、打率は自己最高の3割3分6厘をマーク。


その後2001年12月にメッツへトレードで移籍。移籍1年目の2002年は7月26日にスイッチヒッターとして史上7人目となる通算2,500安打を達成。7月にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍。7月は打率3割1厘を記録するも、8月、9月は低打率で、チーム地区優勝を逃す一因にもなりました。ドクロ

2004年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスが買い手市場を生かして1年総額100万ドルの低年俸で契約。お金

2005年1月17日にデビルレイズと契約するも、キャンプ中の3月19日に引退。


2008年に背番号12番はブルージェイズのエクセレントナンバー(準永久欠番)として顕彰。


通算安打は2724本、ゴールドグラブ賞は二塁手として歴代最多の10度受賞と、攻守に素晴らしい実績を残し、史上最高の二塁手と言われ、資格取得1年目の2010年での殿堂入りは確実視されていましたが、やはりツバ吐き事件が影響したか、資格2年目の2011年に殿堂入りしましたクラッカー