トリアー作品を観ていて常々感じるのが、保守的な人物(トリアーは「がんこ者」と言ってます。本作では長老、神父、母親など)の描写が不快だけど素晴らしいってことです。子供を追い払った神父が倒れているベスに近づいて周囲を見回し、結局何もしないで帰るシーンは少しヤリ過ぎってくらい象徴的。古い考えに縛られ、自分で判断することなく生きる人間に対する嫌悪が、ココだけでなく随所に感じられます。
がんこ者がいるから純粋というか本能的なベスの存在が引き立つのでしょうが、私はどうしても「がんこ者」の描かれ方が気になってしまうのです。
男は種として劣っていることを隠すため、ごまかすためにルールや戒律を定めたり、コミュニティ内を恐怖で統治したりします。それをトリアーはわかった上で教会の男尊女卑シーンを撮ってるんじゃないでしょうか。彼自身、この点に劣等感があるのかもしれません。
ベスに恋愛感情を持つ若い医師にしても、最初は患者として見ていた彼女を物語後半では独占しようと企てまで起こします。彼女にとって良かれ……ではなく、自分にとっての満足を満たそうとするわけです。こういう人としての業というか、道徳と欲望の表裏一体さなどを上手く表現するなぁ、とあらためて感心します。
「信じれば救われる」などと言うだけで、行為的努力ではなく祈ることに時間を使うことをトリアーは否定しているんでしょうね。
地方や地域コミュニティを健全に運営する手法のひとつに、人それぞれの多様性を認めるという理念があります。例えばAという神を信じる自由も認めるし、信じない者がいることも認める……のような寛容さですが。トリアーは自分の作品の端々で「そんなのは絵に描いたモチだ」と言っている感じがします。
観終わってイロイロ考えらるし、それが楽しい。つくづくそういう作品を撮る監督だと思います。
ドッグヴィルやダンサー・イン・ザ・ダークに比べるとわかりやすい救いがラストに少しだけあるけど、鐘のCGはいらなかったかも……
