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Redの未来は自分で創る

あなたは自分が変われると思ってますか?。時間が未来から現在に向かって流れている、この事を知ればあなたは変われる。


ある男の一生

①21歳で事業に失敗

②22歳で選挙に落選

③24歳でまたもや事業に失敗

④26歳で恋人の死の悲しみを乗り越える

⑤27歳でノイローゼになる

➅34歳で下院議員選挙に落選

⑦36歳で下院議員選挙に落選

⑧45歳で上院議員選挙に落選

⑨47歳で副大統領になりそこねる

⑩49歳で上院議員選挙に落選

⑪52歳でアメリカ合衆国大統領に就任する。


その男とは誰だと思いますか?。

その男こそ、「奴隷解放の父」と呼ばれゲティスバーグ演説で有名な

「エイブラハム・リンカーン」。


大統領になるまでに、実に多くの挫折を繰り返しながら最後はアメリカの

頂点である大統領にまでのぼり詰めた人物。



あなたなら、何の問題もなく平々凡々に進み平々凡々に終わる人生と

波乱万丈、紆余曲折し、失敗を繰り返しながらも遂には高みに上り詰める

人生とどちらの人生を選ぶだろうか?。



20世紀までの日本人であれば、間違いなく殆どの方が前者の方を望んだで

あろう(或は中高年の方々には、今でもそう言う考えの方が多いかも)。


何故なら、20世紀型の成功モデルが、良い学校、良い会社、何事もなく

平穏に会社員生活を勤め上げ、リタイアし年金暮らしと言うのが、究極のライフ

スタイルと考えられていたからだ。


しかし、大学新卒者の就職率自体は、90%以上をキープしてはいるものの

今や、卒業後3年以下にに離職する人間が3人に1人と言う時代を迎えており、

一生涯同じ会社で勤め上げると言うモデルが出来ずらい環境になりつつある。


ネットを通して、あらゆる情報が手に入るようになり、あらゆる物事が比較

検討出来る時代を迎えた。


比較検討した結果「うちの会社はブラック企業です」と言い始める者まで現れた。


ある者は「もはやこの会社では、自分のスキルアップは望めない。であれば

別の会社で更に上を目指したい」と言う向上心を動機として会社を変わる。


また、ある者は「嫌な上司の下でつまらない仕事をやるのは我慢出来ない。

もっと他に自分にあった楽な仕事があるはずだ」と考え会社を変わる者もいる

だろう。



前者であれば、企業側も「即戦力」として迎え入れてくれる可能性があるかも

知れないが、後者となると迎え入れるのに「また仕事を覚えた頃に同じ事をする

のではないか?」と二の足を踏んでしまうかも知れない。


更に、企業側の観点から見て見ると、創業して30年続く企業と言うものは

全創業会社中の僅か0.02%しか存在しない。つまり、10000社創業

しても、30年後に残るのは、僅か2社と言う事になる。


と言う事は必然的に99.8%の会社の社員は、同じ会社で勤め上げたいと

思っていても、否応なく放り出されてしまうと言う事になる。


この21世紀の厳しい時代の事を、ある人は「野生の時代」と呼んだ。


つまり、誰も餌を与えてくれるものはおらず、野に出て、自分で自分の

食い扶持を稼いだ者だけが生き残れる時代と言う事だ。


それは取りも直さず、本人の意志とは関係なく「波乱万丈」は人生を選択

せざる負えない人達が多く出てくると言う事だ。


どうせ「波乱万丈」な「紆余曲折」した人生を行かざるを得ないのなら、

自分で進むべき道を見つけ、積極的に進んで行った方が遥かに楽しい自分物語

が作れるような気がするが、どうだろうか?。


これまでは、誰かの指示によって動く、いわば「マリオネット」のような人生

だったのが、これからは、自分で選択し、選択した道を自らの「足」で歩いて

行かなければならない。


そこには何の「糸」も付いていないが故に、自分で腕を動かさないとなんにも

起こらない。


そこで、怖がって立ち止まっていると余計に危険である。


何故なら野生の時代だからだ。


ボォーと立ち止まっていると「肉食獣」の餌食になるかも知れない。


常に周りの状況を見据え、変化し続ける事こそ「生き残る道」だと言う事に

気が付くだろう。


その事に気が付いたら、変化する事、前進する事を恐れてはいけない。


また今はたとえ「安定した」状況にあったとしても、30年以上続く会社は

ほぼ皆無と言っていい時代。来るべき時に備える先を見据えた行動が必要に

なってくるだろう。


つまり今のあなたは、会社にとって「人財」かも知れないが、一歩間違えば

「コスト」にもなり得ると言う危機意識が必要だと言うことだ。


しかし、だからと言ってなにも「悲観」すべき事ではない。


あなたが、あなた自身の描く「自分物語」の主人公とするならば、これ程

エキサイティングな事はない。


他人の舵であなたの人生が決まるのではない。あなたの切る舵で、あなた

自身の人生を決める事が出来るのだ。


そう考えるとなんだか「ワクワク」してこないだろうか?。


さあ、あなたもそろそろ「自分物語」の舵に手を掛けて見てはどうだろうか?。


「このブログには色々と難しい、理解し辛い事を書いていますので

ハッキリ言って、バカには理解出来ません。色々文句を言われても面倒

なので、バカな方は読まずにどうぞお引き取り下さい」。




と書いてあったら、あなたはどう思うだろうか?。


「何て傲慢なやつだ、人を馬鹿にしやがって」


「バカはテメェだろ、ムカつく二度と来るか」


「誤字、脱字だらけでふざけるな!」


とまあ、色々な感情がフツフツと湧き起ってくることだろう。



上記のような感情を持った後では、その後、私がどんなにあなたの為

になる、良い記事を書こうとも


「どうせあいつが言ってる事だから信用ならない」


「言ってる事は正論でも根性が気に入らねー」


と思われて読んでもらえないと言う事にならないだろうか?。


或は、訪問する事自体二度とない可能性の方が高いかも知れない。



このように一度、その人に対して持ってしまった「印象」はその後

その人を見る際のフィルターとなって長く私達の中に留まることとなる。



これを一般的に「色眼鏡」と言う言い方をしたりする。



私達は普段の何気ない生活の中でさえも、「色眼鏡」を掛けて生活している。



それは、普段、無意識のうちに掛けているので、ハッキリ言ってその存在に

気が付かない人も多い。と言うか気付いている人は殆どいないのではないだろうか。




実は、この「色眼鏡」と言うものは周りの人や物に対してだけ掛けているのではない。



他の場面でも掛けて生活しているがご存じだろうか?



実は、「私」が「自分自身」を見る際にもこの「色眼鏡」を掛けて見ているのだ。




セルフイメージと言う言葉をご存じだろうか?。



セルフイメージとは、日本語で言うと「自分自身が想像する自分の姿」とでも

言ったところだろうか。



このセルフイメージと言うものが、正しく「色眼鏡」で見た自分になっている

場合が往々にしてある。



子供の頃から親に「あんたは本当に人の言う事を聞かない子だよ」とか、友達に

「お前って本当にバカだよな」と言われて来た場合、私自身も私の事を「そう言う

人物なんだ」と見てしまうのである。



これこそが正しく「セルフイメージ」を作る、一要因となっている。



そして、冒頭の「読者をバカにした」言葉で感じたように、外的な要因によっても

この「色眼鏡」が構築されていると言う場合がある。



と言う事は、あなたの身の回りにいる家族、親、兄弟、友達、同僚、テレビ、ラジオ、

読む新聞、読む雑誌、読む本、読むブログ等の内容もあなたの「色眼鏡」形成の大きな

要素となっていると言うことだ。



そう考えると、常にネガティブな言動をする人物、ネガティブな言葉の多い2ちゃん、

マイナスのイメージを持たしめる本などを見ていると、そういう「色眼鏡」でしか周り

を見れなくなり、最終的にはそれが、自分自身に対する無意識の「セルフイメージ」

形成の要因となってしまうと言えるだろう。



故にもし、あなたが、前向きな人生、前向きな生き方を望むのであれば、

そういう「ネガティブ」な内容を発する人物、媒体からは目を背けるべきである。


そういう観点から、このブログでも出来るだけネガティブな言葉は使わない

ように心掛けている。それは、読む人にマイナスの色眼鏡を持たせてしまうからだ。


しかし、それでも尚、あなたがこのブログを読んで、ネガティブなイメージを持つよう

であれば即刻、読むのをやめ、お気に入りのリストから解除する事をお勧めする。


外部からの情報、接する人を意識してコントロールしないと、このマイナスの

色眼鏡は無意識に私達の中に入って来てしまう。


あなたがいくら意識して「セルフイメージ」を高めようと思っても無意識の力の

前には私達の意識しての行動や考えは無力である。ネガティブな情報、ネガティブな人を

遠ざけると言う事は、あなたの「セルフイメージ」を高めるのに必要不可欠な方法である。


その事に気付いた者は、良い環境の下でセルフイメージを安定して高め続け

気が付かない者は、セルフイメージの乱高下を繰り返す。


あなたには、先ず「意識」して環境を見直すことをお勧めする。


環境を変えると、


セルフイメージが変わり、


セルフイメージが変わると


ものの見方、捉え方が変わり


ものの見方、捉え方が変わると


行動が変わり、


行動が変わると自ずと


結果が変わる。


そして、内外共に理想的な「あなた」が作られていく。


「アメリカンジョーク」と言うとどう言うイメージを持っているだろうか?。


「とにかく馬鹿笑いしている」

「何が可笑しいのか理解できない」

「笑いが浅はか」

「ひねりが無い」

など色んな意見がありそう。


むかし、アメリカのコメディドラマの吹き替え版を見たことがあるが、

ハッキリ言って「何が面白いの?」と言う感じで、自分とは笑いの

「ツボ」と言うものが異なると言う事を感じた。


最近では、NHKの教育テレビでもアメリカのコメディタッチのドラマ

が子供向けに放送されているようだが、お決まりのボケ倒しまくりで

お世辞にも笑えない、、、(^^;。


子供が真剣に見ていたので、「面白いの?」と聞くと「うん」との答え。

でも笑い声は一切しない。日本であれば、どう見ても滑ってるとしか

思えない状況を垂れ流ししていると言う感じか?。


日本の笑いの原点は?と言うと、やはり「落語」だろう。

笑いあり、ホロッとさせる話しあり、そして最後には必ずオチがある。

聞き終わった後に「なるほど」と人を諭す部分があると言う事だ。

ここが「アメリカン(薄い)ジョーク」とは決定的に異なる部分かも知れない。


落語の祖と言われる人物が「安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)」と言う人物。

この方の本職は、実はお坊さん。

仏の教えを庶民に理解してもらうために分かり易い言葉で、時には笑いも交え

ながら話しをしていたようだ。

この「仏の言葉を伝えるため」と言う部分も、アメリカンジョークとは異なる

部分と言える(アメリカンジョークがキリスト教の布教のために始まったと

言う話しは聞いたことがない)。


その後、江戸中期になると、大坂の米沢彦八、江戸の鹿野武左衛門、

京都の露の五郎兵衛ら落語家三人衆の登場により、元禄文化の一翼を担う

程の盛り上がりを見せていった。


つまり、落語は一つの文化なのである。


それに対して、アメリカンジョークの発祥は、イギリス統治時代であり

恐らく、本国に対しハッキリと物申せないアメリカ人が、英国政府や英国人

を「暗に笑い者にする」と言うところから始まったのではないかと思われる。


そんな、アメリカンジョークは果たして文化と言えるだろうか?。もし、文化だと

言うのであれば、「その程度の文化」と言う事でよしとしよう。


と、まあ散々アメリカンジョークについて批判的な事を書いて来たが、

別にアメリカンジョークが嫌いと言う訳ではない。


「口に合わない」ものが多いと言う程度だろうか。


まあ、話しのネタになればと色々比較しては見たがそもそも異なる

環境で始まり、異なる環境で構築されていった笑い故に、ギターと

三味線はどっちが優秀?と言う程、意味のない比較だったりもするわけだ。


ただ、単に「クスッ」と笑えるだけのライトな話しと言う観点で捉えれば

これはこれでなかなか面白いやつもあったりする。


それでは、最後に私「Red」が見つけたなかなかウィットなアメリカンジョーク

をいくつか書いてお別れしよう。

See You Next Time サイナラ サイナラ サイナラ


ジョーク①

あるスイカ畑の農民は、自分の畑から時々スイカが盗まれるのにほとほと
困ってしまい、ひとつ策を施すことにした。

「この中に1つ青酸カリ入りのスイカがある。」と書いた看板を立てたのだ。

すると、それ以来1つもスイカは盗まれなくなった。

そしてついに収穫の日、農民が畑を見ると、例の看板にこんな張り紙が
 
「今は2つ」


ジョーク②

ジョンとマイクがドライブ中に車がエンストをしてしまい、近くの教会で
馬車を借りることになった。

そこの神父が言うには

「この馬はずっと教会で生まれ育ちました。ですから宗教関係の言葉しか
理解しません。前進させる時には『主に感謝します』、停止させる時には
『主をたたええます』です」。

二人は神父に感謝して道を急いだが、前方に断崖絶壁が迫った。

ジョンは「止まれ!止まれ!」と叫んだが馬はいっこうに止まらない。

マイクが「そうじゃない!『主をたたえます』!」

崖の寸前で馬車は停まった。
  
二人はほっとしてフゥーと息を吐き、つぶやいた。

『主に感謝します』。


イッツ アメリカンジョーク!