あなたは、自分の限界と言うものを知っているだろうか?。
こう質問すると、「分かる」と答える人は殆どいないだろう。
何故なら殆どの人が「自分の限界」までチャレンジした事がないからだ。
・ご飯を何回おかわり出来るか?
・何日間食べずに過ごす事が出来るか?
・何日間眠らずに過ごす事が出来るか?
など、日々の生活で身近に様々な限界がある。
私の場合は、人間の三大欲の二つ、食欲と睡眠欲に関してチャレンジした
事がある。
食欲に関しては、どれだけ食べれるかと言うのと、どれだけ食べずに我慢
出来るかと言う両面からのチャレンジ。
食べる方に関しては、三人前の「大盛りカレー」に挑戦したが、あと少しと
言うところでギブアップ。
ベルトを緩められるだけ緩め、ズボンのボタンを外してチャレンジしたが
結局完食はならなかった。
胸辺りまでカレーが込み上げて来ていた。
その後、仕事中も気分が悪く何度「指」を突っ込んで楽になろうと思った事か。
夜になっても「消化」されずに胃の中にカレーが残っていた感じだった。
食べないと言うことに関しては、三日くらい頑張る事が出来た。
断食は1日目、2日目辺りがきつく、それを超えるとちょっと楽な感じも。
三日目辺りになると顔に出るようで、会社の上司から
「お前大丈夫か?、頬がこけてるけど、病気じゃないの?」と心配された。
さすがに階段を上がるのも辛くなって来たので限界かと思い倒れる前にやめた。
寝ないと言う事に関しては、丸二日半程度起きていたと言う事があった。
これは単に仕事のトラブルへの対応と言うのがキッカケであったが、最後は
どこまで頑張れるかやってやろう、と言う変なチャレンジ精神が湧きおこり
頑張った。しかし、三日目の仕事帰りの電車で最寄り駅まであと一駅と言うところで
「意識」を失い、気が付くと「埼玉県」の遥か奥地まで運ばれていた、、(--;。
とまあ、若き日のくだらないチャレンジを書いたが、あれが「限界」であった
かと言うとそうとも言い切れないところがある。
しかし、人間は始める前から「無理だ」と自分にブレーキを掛けてしまう
傾向があるらしい。そうなると、本当に無理なのかどうかさえ分からない。
ある大学の数学の授業でのこと。
居眠りをした一人の学生がいた。終業のベルで目を覚まし、とりあえず黒板に
書いてあった問題を二問だけ書き写した。それが宿題だと思ったからだ。
家に帰り一晩中その問題に取り組んだ。その問題はなかなか手強く、その週は
その問題にかかりっきりになった。
結局、次回の数学の授業までに一問しか解くことが出来なかった。
仕方なく、彼は解けた一問だけを教師に提出した。
家に帰り一晩中その問題に取り組んだ。その問題はなかなか手強く、その週は
その問題にかかりっきりになった。
結局、次回の数学の授業までに一問しか解くことが出来なかった。
仕方なく、彼は解けた一問だけを教師に提出した。
教師は度肝を抜かれた。それは、これまで「解くことが不可能」と言われていた
数学の問題だったからだ。しかし、彼はそうとは知らずみんな解いている問題だと
思って取組み、解く事が出来たのだ。
逆の意味で、自分の限界は、自分が作り出していると言う事を物語っている
エピソードではないだろうか。
エピソードではないだろうか。
社会に出ると私達の目の前には数々の問題が起こって来る。
※それを問題と捉えるか、チャンスと捉えるかはここでは考えない事にする。
その問題の中には「これは俺じゃ無理だわ」と思えるようなものもあるかも
知れない。
しかし、よくよく考えて見て欲しい。
社会であなたの前に起きている問題と言うものは、決してあなたがその問題
に直面した「最初の人類」ではないはずだ。
必ず先に似た様な問題に直面し、乗り越えて来た人がいるはずだ。
その人に解決出来た問題があなたに「絶対出来ない」と言う事は考えずらい。
その人に解決出来た問題があなたに「絶対出来ない」と言う事は考えずらい。
日本の学校では「一つの答え」を求めて授業が進められて来た訳だか、
実際に社会に出て見ると、答えがいくつもあると言う事に気付かされる。
どんなに難しい問題であったとしても「あなたなりの答え」が見つかるはず
である。それを探して進むところに、あなた自身の人としての「奥深さ」や
社会的に通用する「スキル」と言うものが身についてくるのではないだろうか。
かつてロッキーの映画の中で
どんなに殴られて倒れても「NO PEIN」「NO PEIN」と言いながら
立ち向かっていくシーンがあった。
私達も「NO LIMIT」「NO LIMIT」と唱えながら進もうではないか。