トーマスは、マナーがいい。
あの頃は、ただの不法入国者だったが、今では居住権も持っていて、家も二軒所有し人に貸して家賃を貰っていた。
船の中で、久々に電話してみようと思った。
貝を掘る。
魚を釣る。
ただ黙々と働いてくれたトーマスを、あの泊さんに見せてやりたいくらいだった。
だがトーマスも七十七才、昔のように働けない。
働かなくてもいいのだ。
二人同じ船の中で、時の流れを感じながら、思い出話ができる。
私も日本でスペイン語を使うとは、思ってもいなかった。
トーマスも密入国した時は、リオ・グランデという国境の川を渡って、数日野宿してアメリカに入国している。
それに比べると、日本のホームレスは簡単だ。
移民官の心配をしなくていい。
ガラガラ蛇の心配もしなくていい。
トランプは何故かメキシカンに厳しい。
今だったら、トーマスは居住権は貰えないだろう。
私は六十年の間に、多くのメキシカンと仕事をしてきた。
盗みをする男と出会っていない。
むしろ、信用して財布を預けていい男ばかりだった。
歳のせいか、今、泊さんを信用して騙されたからか、メキシカンを思い出していた。
トーマスは特別だが、同じ日本人から騙されてみると、信用出来るトーマスの事が思い出されるのかもしれない。
私は六十年、日本で生活していない。
六十年前の日本と今の日本は、色々な面で違っている。
六十年前の学生は貧しくて、ホームレスとそう変わらない。
四十円のしんせいの煙草が買えない学生もいた。
金が無かったら煙草を吸うこともないのだが、大学生になって大人になったつもりだ。
高校生の束縛された生活から逃れた、解放感を味わいたかったのだろう。
時代が変わっても、貧しい人はいつもいる。
その人達も、以前の貧しい人と同じではない。
船底に横になって、波の音を聞きながら、私自身が時代の流れに適合していないのが分かる。
それに、アメリカと日本の違いもある。
自分勝手に、一緒にしてしまうところに無理がある。
まず、自分を変える必要がある。
そう言っても、六十年も日本を離れてアメリカで生活してきた私の頭の中では、アメリカの生活が染みついて変えられない。
私の仲の良かった友達は、みんな逝った。
それは、日本でもアメリカでも変わらない。
私一人が長生きし過ぎたのだ。
メキシカンのトーマス一人が残った。
だが、そのトーマスも数ヶ月連絡していない。
元気なのかどうかも分からない。
夜半、ふと目が覚めて何か胸騒ぎがした。
名月だった。
街の屋根まで見える。
白い雲が、月の周りを千切れて流れていく。
トーマスは元気だろうか。
生きてたら、私の生まれ故郷に連れて来てやりたい。
若い頃、どれくらい世話になったか分からない。
給料が遅れても、じっと我慢してくれた。
そればかりか、遅くなっても終わりまで働いてくれたのだった。
名月に酒は飲めないが、団子は食える。
昼間買った串団子を出して、湯を沸かした。
プロパンガスだから早い。
月明かりは船内まで明るくして、ランプなしでも物が見える。
昼と間違ったのか、カラスが鳴いている。
さざ波が船底に当たって、チャプチャプと鳴る。
潮の香りがした。
月がきれいなので、船の錨を上げた。
引き潮だ。
河口に向かって流れていく。
波間で鯔が跳ねた。
橋桁に注意して、川を下った。
東京湾がもう近い。
品川方面の空が明るい。
月の光だけでなく、街の明かりでもある。
トーマスは、この日本に馴染めるだろうか。
順応性はある。
日本食も刺身以外は何でも食べる。
団子を頬張りながら、トーマスとの日本生活を考えていた。
つづく

