平成の終わりは東京にも台風が直撃して、都民ばかりでなくホームレスにも災難が多い年だった。


一見、景気良さそうな街も失業者が増えて、ホームレスも年々増えていく。


六十年前、私の大学生時代は学生も貧しかったが、逆にホームレスは少なかった。


アルバイトをすれば、ラーメンもコーヒーも煙草も買うことが出来た。


台風通過後、多田さんと連絡が途絶え、気にかかっていた。


多摩川も洪水で、ホームレスの住まいも流され、私の船も行方不明になった。


私の住む場所もなくなり、石川さんも建物が流されて橋の下で夜露をしのいでいた。


石川さんも多田さんを探したが、行方はわからない。


私は、多田さんは酔っ払って洪水に流されたのだとしか考えられなかった。


元気だったら、元のところに戻って来る。


多田さん以外にも、戻って来ない人がいるらしい。


私は知らないが、石川さんが言う。


多摩川のホームレスは、戻って来たくても来れない人も多い。


たかがブルーシートの小屋といっても、ホームレスには財産だった。


昨今のように空き缶が安いので、集める人が増えて集まらない。


石川さんのような働き者でも、材料を買う余裕はなかった。


私も、もう前のように色々と持って生活することは諦めて、ホームレスをやめるつもりだった。


船だって台風で流されれば、その中にあったガスボンベも発電機も大鍋も無くなってしまい、それは数年かかって買い集めたものだった。


もう軽のワゴンもない。


それより、住むところを失ったホームレスが、集まって来ないだろう。


私は、石川さんにリヤカーと二万円を渡して、ブルーシートを買うように言った。


金は返さなくていいと言ってある。


多田さんか居たら、彼にも金を渡すつもりだった。


その日暮らしの人に金を貸しても返してもらえない。


石川さんは恐縮して、その金で材料を買った。


仲間が手伝ってくれて、骨組みは残っていたので、数日で小屋は復元した。


私は、月三万円でモーター付きの船を借りて、それで貝を掘り、魚を釣った。


船はアメリカに帰るとき、持ち主に返して帰る。


もう日本には来ることはないだろうと考えていた。


多摩川にも春が来て、枯れた芦原は、あっという間に緑になり、南の国から忘れずによしきりが帰ってきて、忙しく啼く。


久々に聞いても、声は悪い。


河原にもホトトギスが啼き、そこが東京の街の一部とは考えられない。


夜寝るとき、多田さんを思い出していた。


多田さんのは十五年以上の付き合いだった。


最近では深酒して酔って、管を巻くばかりで迷惑していたが、居なくなると別だ。


いい思い出だけが思い浮かぶ。


多田さんが居なくなって、自分の船がなくなり、泊さん夫婦もやる気がなくなった今、私はアメリカてホームレスの続きをやるつもりだった。


アメリカではボロ屋でも家が有りホームレスではないが、金を使わない生活は出来る。


戦後の昭和二十一年から五年位、貧しかった。


だがその貧しい頃、小学生の私は金を稼いでいた。


仲間から勝ち取ったビー玉やメンコを買いに来る子がいて、それを売って金ができる。


戦後の不景気なときでも、子どもが欲しがる物を持っていたから売れたのだ。


戦後から一番値上がりしてない物は、鶏の卵だろう。


戦後は貴重品で、地鶏の卵は十五円で売っていた。


私のように自分で飼って放し飼いにした鶏の卵は、どこでも買ってくれた。


十羽の鶏が十個の卵を産む。


二十個以上貯まると、近所の家が買ってくれる。


魚を沢山食べさせているので、卵の黄身がいつもオレンジ色だった。


白い鶏の卵は白いが、プリモスロックやコーチンの卵は茶色だから、嘘はつけない。


たいていの店では、レグホンの卵を売っていたが、茶色の卵で黄身がオレンジ色だ、一度食べたら欲しがる。


家で余ると、近所や店に売っていた。


子どもでも、人が求めているものは知っていた。


それで、商売になったのだ。


六十年後の今でも、ホームレスが求める物を安く売る方法を知っていたので売れたのだ。

                    つづく