私のロードバイク人生は高校一年の時夏休み明けに同級生のSSKがロードレーサーを買ったという話を聞いたことが始めだった。何しろ自転車など高くても69800円の広告を見て驚いていた頃に彼の購入価格が15万と聞いたから驚きもひとしお、しかし興味を持ったことは確かだった。ロードレーサーという代物もたまたま見た雑誌に乗っていて興味を持った。
何でもロードレーサーとはプロの使う競技用の自転車で主にヨーロッパの山岳レースなどで使われるものらしいということだけは分かった。少し興味を示したことにSSKは歓び会うたびにその性能の素晴らしさを語り始めた。私も家から地元駅までは自転車通学だったことや子供の頃から割と遠出をしていたことから自転車には無意味な自信があった。パワーも地元地域では有名だったので根拠もないものだったが。
そしてそれから半年ほど過ぎた頃にSSKと私は昼休みは図書館の友になっていた。
国土地理院の航空写真を見ては「ここに行こう。」とか「ここで待ち合わせよう」とか妄想を繰り広げていたのだ。私もやることがないので付き合っていたが本当に毎日よくやるものだと思っていた。そして次の休みは建国記念日と日曜で連休になるから横浜まで出てこいよという話を急にし始めた。私も特に行きたいわけでもなかったがやることのない暇人であることに変わりなく結局はSSKの策略にハマり、自宅から11km離れた横浜駅近くの開かずの踏切で待ち合わせることとなった。
私の地元はたしかに住所表記は横浜市内ではあったが横浜駅とはかなり離れており、地元の友人が横浜駅まで自転車で行くような人間はいなかった。まさに私は変態だった。?!
私が目的地に着くとすでに真っ白いセーターを着たSSKが満面の笑みで待っていた。ここまで書いていなかったが実は当時の彼は超絶イケメンで街を歩けば女子中学生や高校生が振り返ってヒソヒソ噂をするほどのいい男だった。そのあたりは本人も自覚しており、バッチリポーズを決めていた。
隣には見たこともない美しいブルーの細ーいタイヤの自転車が置かれていた。これは国内大手の宮田工業のチームミヤタというモデルだった。カタログの値段は確か198000円か228000円とかだったと思う。抜群に高いモデルだった。本場ヨーロッパでも勝ったマシンと言う事で有名だったようだ。実は最近このモデルは伝説のTheミヤタシリーズということで宮田から復刻され完成車凡そ90万円の代物である。
それは私の机の後ろにありもう18年乗っていない。



これがそのマシンだが実はこれ私があの1985年の2月11日に見たあのマシンそのものなのである。理由は後述する。元々このTheミヤタだけでも高級でレアなのにこのマシンはそれを輪にかけてレアモノである。このマシンは主に北米をターゲットにした輸出仕様だったからである。フレームサイズも欧米で575mmと身長180cmはないと乗るのが厳しいサイズである。当時のSSKと私は共に173cm程。またがるだけで精一杯だった。
話を踏切に戻そう。開かずの踏切で落ち合った我々は手近な観光スポット、桜木町駅から海側に入った新港ふ頭に行くことを決めた。桜木町駅の隣の道はまだ東横線の高架区間で交通の流れも速かったので私は競輪選手のごとくいきなりアタックをかました。体感で時速50km程度は出ていたと思うがすぐに脚が棒になりSSKに抜き返された。見た目イケメンの彼に先行を許すのは許せない。負けるのは顔だけにしたいと必死に漕いだが何しろ信号からの加速がよく速度のキープもよく一度上げたスピードが落ちない。二人は10分ほどで新港ふ頭の入り口にあったパン屋の前で写真を撮った。
その後、赤レンガに進み彼の美しいロードレーサーと自分の24800円の一応ドロップハンドルだけついた自転車を眺めてすでに憧れ始めていた。
赤レンガは当時テレビドラマで人気のあったあぶない刑事のエンディングでも使われておりSSKは熱く語っていたが私はテレビも見ていなくてチンプンカンプンであった。
次に横浜観光の定番、山下公園へと移動。ここでSSKから「せっかくだからお前乗ってみろよ。」と提案が。。。当時そんな高級品に縁はなく恐る恐る公園内を少しだけ乗らせてもらった。今ならわかるハンドルと本体をつなぐ黒光りするパーツが眩しくて。ステムの事だがタイヤもチューブラータイヤと言うらしいプロが使うものだという。印象はとにかく大きくて路面からの衝撃が直に伝わる硬い乗り心地だけだった。
その日はSSKの体調不良で早々に解散。私はその月からコンビニでバイトを始めた。もちろん遠い目標だがチームミヤタに一直線。男子校でも校内では彼女が出来たとかデートに行くとか言う話題が飛び交う中、色気もなにもない自転車命になってしまった私。少し資金ができれば都内のショップなどを巡りパーツを少しづつ集めた。しかし悪いニュースもあり、なんと宮田の輸出仕様はもう在庫のみで私の目標だった575mmのフレームはもう在庫なしだった。
という訳で買えるものがなくなってしまったのだがこれには奇跡があった。私が毎晩穴の開くほど見つめていた輸出仕様のカタログの撮影に使った完成車が一台倉庫の隅から見つかったと連絡が入ったのだ。これで俄然やる気になった私はバイトのシフトも増やし金を貯めた。そして5月の中間試験の最終日1986年5月23日金曜日に晴れてバイトで手に入れた25万円を握りしめて、SSKの購入した逗子の自転車屋に向かった。
ここの店主が親を連れて買いに行ったボンボンのSSKには色々意地の悪いことをしたらしいが自らバイトで稼いだ私には当時プレミアムのついていたマニア垂涎のパーツを安く譲ってくれた。そして回ためた残りのパーツをSSKの自宅に持ち込み取り付けて記念走行をした。思い出の山下公園まで逗子から16号線を北上した。ここで自分の勘違いに気づく私。SSKに遅れを取った過去はきっとロードレーサーの効果が高いと思っていたがSSKはケイデンスが高く意外にも持久力に優れていた。結局自転車は自分で漕ぐもの。良い物を買ってもいきなり早くなる訳ではなかった。しかもこの日は初乗りにも関わらず逗子から横浜市の西部まで50km以上の距離を走る私にとってはロングライド。最後は地元の坂で脚が釣り危うく転けそうになる。
長すぎるので一部完