父の移転先はまだ見つからない。今、お世話になってる施設でもコロナ陽性者が発生したりして、その対応で動きが鈍くなってるのもあるようだし、やっぱり暴言を吐くような老人を引き受けてくれるところは、そんなにないのかな。

 

 僕が司法試験に受かって、もちろん、家族はめちゃくちゃ喜んでくれたわけだけど、その中でも父の喜びようは半端じゃなかった。というか、ちょっと異質だった気がする。

 弁護士として働くようになってからは、仕事の話をすると、「俺はそういう話を聞きたいんだがや」と心から嬉しそうだった。

 東京に来る機会があれば、やたらと事務所に来たがったし、たまたま長時間の尋問があった時は、最初から最後まで傍聴した。その時、相手方の当事者は、大柄で迫力満点のもの凄く気の強い女性で、そのことが遠因となって激しい争いに発展したわけなんだけど、僕は尋問でかなり追い詰めて、様々な矛盾を容赦なく問い詰めた。尋問後、裁判所の外で一緒になった父は、「あの相手の人、終わった瞬間、がっくりうなだれて、倒れそうになっとったなあ」と、つぶやくように言った。感想らしいことはそれだけだ。

 ある時、「俺は、お前が弁護士になって、初めてちゃんと話ができるようになった気がしとる。それまでは、何か壁みたいなもんがあるような感じがして、うまいこと話せんかった」というようなことを言われた。そのときは「そうかな」ぐらいにしか思わなかったけど、考えてみれば、僕はそれまで両親の期待とは相反する方向へまっしぐらに進もうとしてるっていう自覚があったんで、まともに向かい合おうとしてなかったのかもしれない。いわゆる負い目か。もちろん、音楽をやり続ける覚悟を隠さず伝えたし、音源も聴かせ、ライブにも呼んだ。でも、それは表面的なことで、実際はその場を取り繕うことだけを考えて、本当の意味での本音は常に見せないようにしてたのかも。

 いや、それだけじゃない。実際、両親と3人で旅行に行ったのは、小学校を卒業した春休みの四国旅行が最後だ。ずっと反抗的な子どもだったわけじゃないけど、なるべく疎遠な関係であるように振舞ってきたように思う。一人っ子だからといって、甘やかされた存在にはなりたくなかったというのもある。妙な意地とか、独立心みたいな。

 生きてるうちに、もう少し親孝行しなきゃな。