先日、父が入院している東名古屋病院から電話があった。というより、名古屋の市外局番「052」の着歴があったんで折り返してみたら病院だったんで、まさか「残念ながら、つい先ほど・・・」とかって話じゃないかと一瞬身構えたんだけど、そうではなく、退院について打合せに来て欲しいという。要するに高齢の母と話していて、理解力が不安ということだろう。

 父は、色々と理解できていない様子ながら、「まさかお前が来てくれるとは思わなんだ」とか、「お前に会えるなら俺はもうどうなってもいい」とか、とにかく同じようなことを繰り返して、これ以上ないほど喜んでくれた。そういいながら、僕のコートの柄が埃に見えたようで、さりげなく払おうとするしぐさが、その直前に母もまったく同じことをしたこともあり、妙におかしかったな。

 とにかく、肺炎はかなり良くなりつつあり、クリスマスぐらいまでには次の行先を決めて欲しいとのことだった。母の大騒ぎはなんだったんだろうと思いながら、とりあえずはほっとした。もう足が弱っていて歩くこともできないんで、施設を探さないとね。

 

 さて。

 というわけで、消息を絶って半年ほどが経ち、僕はいい加減、両親に連絡をしようと考えた。しかし、実家に電話をして母が出たら何かと面倒なんで、僕は父が働いていた愛知日野自動車に電話をすることにした。トラックを販売する会社だ。

 すると、とりあえず父が東京に来て、一緒に実家に帰ろうという話になった。新宿駅で待ち合わせたんだけど、2人だけだと何かと冷静に話しができない可能性を考え、大学のロックサークルの先輩である太田さんに同行してもらった。3人で食事をして、当たり障りのない話をした後、父はうちで1泊して翌日、一緒に名古屋へ向かったんじゃなかったかな。まあ、結局、核心に触れるような話はほとんどしなかったような記憶だ。

 実家に着くと、晩ご飯が用意してあって、3人でぎこちなく食べた。

 何しろ、話すことはもうなかった。僕は池袋に引越しをして以来、仕送りを受け取っていなかったし、翌日からもアルバイトで生活をしながらバンド活動を続けていくことは、もう何を話そうが変わらない。次の年の3月には大学を卒業することになるけど、「就職」という言葉はなんとなくタブーな雰囲気だった。両親は、その食事の時間に、色んなものをあきらめるしかないことを悟ったんじゃないかと思う。長い間、抱き続けてきた二人の思いや希望は、最後にもう一度だけ望みをかけて披露されるという機会もなく、どこかにしまい込まれることになったんだろう。かわいそうだとは思ったけど、申し訳ないという気持ちはなかった。僕にとっても、生きていくための唯一の選択だと確信していたから。

 この事件によって、僕と両親との関係は、それまでとは全く違うものになった。

 

2021年12月1日