母は勝手に勘違いして大騒ぎしていたが、父が入院する病院に電話して直接先生と話をしたところ、それほど重篤な状態でもないようだ。ただ、認知症が進んでいる人の肺炎は急激に悪くなって命を落とす可能性があること、また足が弱ってもう自力で歩いたりすることは難しいんで、もし肺炎が快方に向かったとしても自宅には戻れないという話を、母は悲観的に捉えて脳内で飛躍させたんだろう。

 

 しかし、元々はここで父がいかに暴力的で自分勝手で、厳し過ぎる親だったかということを中心に書いていこうと考えていたんだけど、いざとなるとあんまり悪いエピソードを思い出すことができない。それはたぶん、前回書いた中学校2年生の時の事件に続いて、大学4年生のときに僕が大きな反抗を示した事件によって、父と僕との関係が大きく変わったことが原因のように思う。

 

 僕は小学生の頃からなかなかの問題児で、特に父の親戚関係からは「あっちゃんはダメだわ」と、将来を不安視される子どもだった。そんなこともあり、両親は、僕が早稲田大学の政経学部に合格したことで、すべてがひっくり返ったように喜んだ。高学歴だけで、もう将来は約束されたと思い込んでしまうほど、単純な一般市民なのだ。

 ところが現実には、僕はほとんど授業に出ることはなくバンド活動に没頭した。そのために東京の大学に行ったんだから、当然だ。大学3年生になっても、就職活動にはまったく興味がなかった。それどころか、ロックサークル以外に友だちもいなかったために、クラスのみんなが就職活動をやっていることもよく知らなかった。

 そんなわけで、不可避的に両親の思惑と現実とが激しく衝突する時期がやってきた。僕が就職はせずバンドマンとして生きていくんだというと、母は泣くわ喚くわの大騒ぎ。父は「そんなら今からトラックで東京に行って荷物を全部引き上げるで、あとは一人で生きてけ!」と怒鳴る。僕が「分かった。ありがとう」と言うと、母は「そんなこといかん。あんたが就職しんのなら私は死ぬでね!」と泣き叫んだ。

 ところが、大学3年生の成績が発表されると、残った単位が多過ぎてあと1年では卒業できないことが確定した。就職に関しては1年間の猶予ができ、僕は5年生になった。

 

 1年後、また同じ騒ぎが避けられないことは目に見えていたんで、僕はそれまで住んでいた新宿区中落合のアパートを勝手に引き払って、池袋でバンドのメンバーと住むことにした。両親は僕に電話をすると、「この番号は使われていません」というアナウンスを聞くことになり、アパートの大家さんに問い合わせたら「もうひっこしましたよ」と衝撃の事実を告げられることになる。同時に、実家には大きな荷物が届き、そこには恐ろしい手紙が入っている。詳細は覚えていないけど、子どもの夢を理解せず、自分たちの勝手な思い込みや願望を押し付けようとする両親をかなり厳しく非難する内容だったことは確かだ。

 僕は、何があろうとも秋までは、つまり就職活動というものが終了する時期までは、両親との連絡を絶つ決意だった。

2020年1月4日 新宿"ルミネTHEよしもと"にて