コロナと1年以上付き合ってきて、色んなものが見えてきた。

 

 スペイン風邪以来100年ぶりのパンデミック、世界中の人たちが初めて経験する災厄に遭遇し、混乱するのは当然だろう。

人によって感じ方も違えば、行動や対応も立場やキャラクターによってバラバラだ。

その中で、国の感染対策として、様々なパターンが見られるのがとても興味深い。社会のあるべき姿を考えていくためにも、コロナ終息後には様々な考察が行われ、議論の材料が提供されることだろう。

 

 現時点で僕なりに考えていることをざっくり整理してみたい。

 

 大きく分類すると、ニュージーランド、オーストラリア、台湾のように感染拡大の兆候が見えた段階で素早くロックダウン等の厳しい対策を採り、短期間で徹底的に抑え込む強制型と、日本やスウェーデンのように外出や営業等に対する自粛要請レベルに留めて、何となく社会を回しながら爆発的感染を抑えつつ終息を待つという共存型とでもいうやり方に分けられるといっていいだろう。

 

 単純に比較すれば強制型の方が優れているように思える。

 実際、「日本でもニュージーランドのようにやるべきだ」という声があちこちで聞かれるしね。

しかし、現実問題として、日本にはそのような法律がないから、やろうと思ってもできない。

インフルエンザ特措法で緊急事態宣言についての規定を取り入れたり、つい先日は飲食店に対して時短命令を出し、それに従わない場合は罰金を科すという法改正が行われたが、それだけでもかなり反対の声が大きかった。

日本は、国による強権的な規制ないし人権制約に対して、極めて抑制的な社会だといえる。

そして、このことは、もの凄く喜ばしいことでもある・・・ホントにそうなのか?

 

 日本社会がそんなに人権を尊重したり、その制約に慎重であるという実感をもつ人はほとんどいないだろう。

 要は、政府と国民の間の信頼関係が希薄なのだ。

昭和の初め、戦争の時代に突入した独裁的な社会のあり方に対する反省から日本国憲法は生まれた訳だけど、政府に対する不信感はそのまま払拭されていないというのが正しい理解だと思う。

そして、安倍政権におけるウソ、欺瞞、隠蔽、改ざんの連発によって、その不信感はより決定的なものとなった。

そんな中で、コロナ禍に乗じて、容易に人権制約を許すような法改正なんてあり得ない。

 

 実際に、強制型の国々に関する報道を見ると、それぞれの国のリーダーは驚くほど丁寧なメッセージをくどいほど繰り返し、国民に送っている。こんなリーダーなら、誰だって信用したくなる。官僚が書いた原稿を棒読みして、質問にも答えず不機嫌に会見を切り上げる日本の総理大臣とは雲泥の差というほかない。

 

 国や社会には、それぞれの歴史や文化がある。

そのことを忘れて、感染対策に成功したように見える国の表面的な部分だけをマネしようなんていう安易な考え方はやめた方がいい。同じようにいい結果をもたらすとは到底思えない。むしろ、悲劇を生むだけだろう。

 

 こんな時代に、こんなお粗末な政府しかもたない国民は、やはり不幸というしかない。しかし、今、そのことを嘆いてもすぐに何かが変わるとは思えない。

 僕たちは、この国の社会にふさわしい共存型でコロナ禍を生き延びることを考えるべきだ。

 

PS. 自分たちの権利、自由、そして人であることさえ捨て去るのか?というテーマを歌った島キクジロウ&NO NUKES RIGHTSの「Rights and Freedom, Humanity」、JUMPSでもやってみた。クラッシュが『Sandinista』を作ったことを考えれば、別に不自然じゃないよね?