ちょっと前に『Fukushima50』っていう映画を観て、ついでに原作の『死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発-』(門田隆将)も読んだ。

 福島原発事故当時の現場での東電や協力企業、自衛隊、そして官邸を含む人たちの奮闘を描いた作品だ。

 2011年以降、たくさんの本を読み、話を聞き、映像を観たりして、それなりに知見を積み重ねてきた。現場の人々がいかにギリギリの緊張感の中、強い使命感と絶望に押しつぶされそうになりながら必死の思いで、それぞれの役割を果たしていったかについては、それなりに知っているつもりではあった。そのため、特に新たな発見みたいなものはなく、ただ同じテーマを違う角度から描いた『太陽の蓋』に比べると、エンターテイメントとしての完成度は格段に上だなと感じるぐらいだった。

 

 しかし、この吉田千亜さんの『孤塁-双葉郡消防士たちの3・11-』(岩波書店)に描かれた話はほとんど考えたこともないものだった。

 あの事故の中で消防士たちがどう行動したかなんて、話題になったこともなかった。

 

 地震に津波、原発事故や避難という非常事態の中で次々に発生する緊急患者たち、しかし受け入れ先の病院の確保もままならず、長距離移動の繰り返しを強いられる。家族はどこに避難したのか、いや無事なのかさえ分からない。他の地域から応援に駆け付けた消防隊も、避難指示区域には入ることができずに立ち往生し、孤立状態に陥る。挙句の果てには、原発を冷やす水を入れるために第一原発へ行くよう命じられる若い消防士たち。泣きながら装備を手伝う仲間。正確な情報も伝えられず、後に判明する大量の被ばく。

 

 なんでこんなところで命を賭けなければならないんだ?

 なぜ誰も交代してくれないんだ?

 自分が最後までここに残って任務を遂行する責任なんてあるのか?

 

 淡々と描かれる消防士たちの様子から、彼らの思いや疑問が自分のものとして浮かび上がる。

先に挙げた『死の淵を見た男』とはある意味対照的で、誰かをヒーローに祭り上げようとか、読者に怒りや感動をもたらそうというような意図を感じさせない、最後まで一定の視点を貫いて書かれた作者の姿勢に強い共感を覚える秀作だ。

 

 さて、コロナ禍。

イギリスなど多くの国々で医療従事者への感謝のアクションが広がっている。もちろん、素晴らしいことだ。

日々、感染のリスクにさらされながら、次々に運び込まれる感染者や重症化する患者たちへの責任と自身の身体的精神的疲労におぼれそうになっていることだろう。彼らの心が折れてしまったら、とても災禍を乗り越えることはできない。

しかし、同時に、ほかにも歯を食いしばって社会を支えてくれている人たちが、僕たちの知らないところにたくさんいることも忘れてはならないだろう。

社会は、簡単に想像できるぐらいの役割の集まりで構成されているわけではないのだ。