あいちトリエンナーレ2019という展覧会の「表現の不自由展・その後」という企画が中止になった。

 

 従軍慰安婦像 《平和の少女像》等が展示されることに対し、河村名古屋市長が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として撤去を要請したり、菅官房長官が「補助金の交付決定では事実関係を確認、精査したうえで適切に対応していきたい」と発言し、連日200件もの電話や数百のメール、さらには「ガソリン携行缶持って館へおじゃますんで」などの脅迫文が届くなどしたため、職員の安全等も考慮しての決断だったようだ。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20294

 

 その後、大村愛知県知事は、河村市長の発言が憲法違反だと批判し、大阪の吉村知事や松井市長が同企画や大村知事を批判し、日本ペンクラブや同企画実行委員会などが抗議の声明文を発表したり、何人もの参加作家がトリエンナーレでの展示を辞退したり、大村知事が芸術祭を検証する委員会を設置したり・・・と、混乱はまだまだ続いている。

 

 もちろん、極めて重大な事件なんで、簡単に終わらせるべきではなく、議論に議論を積み重ねることが大切だと思う。

 何よりも、こういった展覧会で一部の作品に対し、その展示に反対する人々が脅迫したり大騒ぎしたりすれば、その作品が撤去されるという社会でいいのか、という根本的な問いを忘れてはならない。そのようなことがまかり通れば、強い非難を浴びるおそれのある作品を発表する人がいなくなり、社会は単色に染まることになる。いわゆる表現の萎縮効果っていうやつで、戦争へとひた走った昭和初期の再現を望むような人はいないはずだ。

 

 ただ、色んな意見なんかを見ていると、ちょっと議論が錯綜しているように思う。

 

 表現の自由というのは、あくまでも表現(作品)の内容を問題として、権力が口出しすることを許さないということだ。

今回の件でいえば、名古屋市長としての河村や補助金の交付決定に関与する立場としての菅の発言は、まさに表現の自由を侵害しようとするものであって、許されるべきじゃない。河村の「日本人の心を踏みにじる」なんていうトンチンカンな発言自体は、彼の見識を疑わせるものではあっても、「だから、俺は嫌いなんだ」っていうだけなら大した問題じゃないけど、展覧会の開催場所である名古屋市の首長として撤去を要請するとなると、話は全然違ってくる。菅が言おうとしているのも、そういう内容のものであれば約束の金は出さないよ、というように解釈できるわけで、まさに表現の自由の侵害といえる。

 

 他方、作品に対する意見や批判は、一定の範囲内であればいくらでもすればいい。自由だ。それに対する反論も自由にできるわけで、これこそ言論の自由ってやつだろう(対抗言論っていうやつ)。

そういう議論(争いといってもいい)こそが、文化を育て、社会を成熟したものにしていくはずだ。ペンクラブの声明にある「いま行政がやるべきは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思を疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことである」というのも、同じ趣旨だといっていいだろう。ロケンロール!

松井や吉村がいくら批判しようが、それも一つの意見に留まる限りは、まあ、よしとしよう(吉村の発言が表現の自由というものをまったく理解してないことを露呈したことはちょっと衝撃的で、大村知事がいうように「哀れ」というしかないが)。

しかし、「一定の範囲」を超えるような人格攻撃的な非難や排除を目的とする誹謗中傷であったり、ましてや誰かに危害を加えるかのような脅迫は、当然のことながら表現の自由とは無関係で、絶対に許されない。このような言動は犯罪として、しっかりと取り締まられるべきだし、今回も、厳重な警備によって安全を確保しつつ、展示を続けるべきだったと思う。そのための経費の増大は、民主主義を守るためのコストとして受け入れるしかない。

 

 今回の事件が深刻なのは、河村や菅の発言が、そのような人格攻撃や脅迫といった犯罪を正当化するかのような役割を果たしたことだ(この意味では、松井や吉村の発言も同様といえる)。意図したものとは思わないけど、表現の自由への無理解ないし軽視がそのような発言を生んだのだ。

今の政権の最大の問題点は、憲法の軽視にある。

改正をしたければ、そのための議論を堂々とすればいいが、憲法違反を堂々とやってもらっては困る。憲法の存在感を軽んずるやり方は、社会を崩壊させるもので、絶対に許してはならない。

 

 本件は、まさにここ数年の政権の姿勢がもたらしたといえる深刻な事件で、これをなんとなくスルーするようでは、未来は暗くなる一方だ。