相模原市の障害者施設で19人もの人たちが殺されるという事件が発生してから、早くも2週間が経った。

犯人は、「障害者なんていなくなってしまえばいい」などと言っているようだ。

それだけなら、単なる異常者による犯罪ということになるが、それに同調するような意見もネットでは散見されている。


 安倍政権は、生活保護など、いわゆる弱者への保障を切り下げまくっているし、巷ではこれまで考えられなかったような在特会によるヘイトスピーチが横行し、それどころか、その代表者が都知事選に立候補して、10万票以上を獲得して5位に入った。
 弱者、少数者を踏みつけることが恥ずかしげもなく行われるという、異常な社会状況の中で、小池百合子東京都知事が誕生したわけだ。


 彼らの主張に共通するのは、生産性の低い人たちや異質な人々の存在は社会のお荷物に過ぎない、ということだ。犯罪者を隔離しようという発想も、類似の考え方と言っていいだろう。


 このような考え方は、多くの人たちが意識のどこかに、潜在的にではあっても、持っているものかもしれない。だからこそ、それを堂々と表明する人が出てくることによって、恐る恐るであったり、匿名で同調する人たちが増殖していくということになるのだろう。


 憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。」と書かれている。

この一文は、憲法の理念を一言で言い尽くす、素晴らしいものだが、同時に民主主義の根幹を示すものでもある。


 民主主義社会における選挙は、憲法44条に定められるとおり、「人種、身上、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」いわゆる普通選挙であることが不可欠だ。

そこには、もちろん、生産性の高くない人、罪を犯してしまった人、様々な保護を必要とする人が存在するが、誰もが同じように1票をもっている。


 つまり、民主主義というのは、このような存在を平等に取り込みながら、それぞれの時代により相応しいあり方を模索していくというシステムなのだ。そこには、多くの非効率が包摂されることになるが、それこそ民主主義社会の本質であり、多様性の結果として、むしろ享受すべきものといえる。

もちろん、多数決の結果によって、少数者の権利が侵害される場合には、司法によって調整することが期待されている。


 「障害者なんていなくなってしまえばいい」などということがまかり通れば、次は、あなたのような者はいなくなった方がいい、ということになるかもしれない。

そういう明日に怯えずに生きていけるのが、民主主義社会であり、誰もが同じ価値があることを憲法13条によって保障される社会なのだと思う。


 今、僕たちが生きている日本は、政治家の言動、社会の風潮、事件の傾向、マスメディアの姿勢など、あらゆる意味で民主主義の根幹を見失い、葬り去ろうとする方向に進んでいるようにしか見えない。

なぜここに来て、より成熟した社会へと向かうことができないのか、国民一人ひとりが相当の危機感を持って考え、議論し、行動すべきときが来ているんじゃないだろうか。


 ヤバいぜ、ロッケンロール!!