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7年前まで血液内科という仕事をしていた。
いまは・・・老年内科かな?
現在の自分は、相当ヤブな気がする。
血液内科だった頃のことは、
ほとんど口には出さないでいた。
でも、
そろそろかつてのことを書いてもいいかな、
と思えるようになってきた。
守秘義務というものがある。
話に出てくる患者さんの、個人を特定できることは、
決して明らかにできない。
差し障りのない範囲で書いていきたい。
これまで、
自分のHPというものを持ったことがない。
ブログも初めてだ。
誰にも話したことのないことを、
ここでこっそりと話してみたい。
スターウォーズの新三部作が好きだ。
エピソード1~3それぞれ面白い。
なかでもジェダイ・ナイツの師弟のやり取りがいい。
マスターとパダワン。
弟子を教えることのできる師匠=マスター。
マスターに教わる半人前の弟子=パダワン。
二人でコンビを組んでやっていく。
クワイ・グァン・ジンとオビワン・ケノビ。
オビワン・ケノビとアナキン・スカイウォーカー。
どちらも見ていて楽しい。
さらにいうと、
ドゥークー伯爵とクワイ・グァン・ジンが、
実はかつてのマスター&パダワンだったとか、
ヨーダとドゥークー伯爵もかつてそうだったとか、
そういうのもニヤリと笑える。
私がかつて大学病院の医局にいたときも、
このマスター&パダワンと同じシステムがあった。
指導医と研修医。
大学によっていろいろな呼び名があるのだが、
私の大学ではこう呼ばれていた。
指導医=オーベン。研修医=ウンテン。
私の医局では、このオーベンとウンテンが、
コンビを組んで入院患者の主治医チームとなり、
あたかもスターウォーズのマスター&パダワンのように、
あらゆる危機に臨むのであった。
オーベン=マスター。ウンテン=パダワン。
そう、あらゆる危機、である。
週一回の教授回診では、
各患者さんのベッドサイドで二人並んで、
教授にプレゼンしつつ質問に答えるのだが、
「あの××の検査データはどれくらいの数値なんだ?」
と教授に質問されたときに、
ウンテン「さっそく明日採血してみます。」
オーベン「オーダー済みですが結果未着です。」
と二人が同時に答えることがあり、周囲の爆笑を誘う。
「お前たち、どっちが正しいのだ? ああん?」
と教授にツッコまれ、二人はうろたえる。
教授が去ったあと、オーベンはウンテンを叱る。
「あのな! ああいう時はな!
結果未着です、ってとりあえずいうものなんだよ!」
多くの患者さんは、
自分の主治医チームである、
このマスター&パダワンのコントを微笑ましく見守る。
どうやら日々の闘病の緊張をほぐせていいらしい。
病棟で怖れられてる鬼軍曹のようなDr.が、
かつて○○講師のウンテンだったりするのだが、
その○○講師が、
ついポロッとバラしてしまう。
「あいつさ~、ウンテンの頃にさ、
担当したロイケ(白血病)の人がステった(死んだ)とき、
病室でオイオイ泣いてたんだよ~」
それを聞いて、
鬼軍曹に毎日シゴかれてる研修医たちは、
「ええ~~! あの鬼のような人にもそんな時が!!」
とビックリしつつ、大笑いしたりする。
あるいは、□□助手がポロリという。
「オレ、△△助教授のウンテンだったんだけど、
あの人さ、半年間オーベンしてて、
血ガス(動脈血採血)の方法しか教えてくれなかったぞ。」
研修医はまたもビックリし、大ウケする。
「ええ~~! あの人格者の△△助教授が、
そんないい加減でヒドいオーベンだったなんて~!」
ちなみに医局内の順位は、
教授>助教授>講師>助手>医局員・大学院生>研修医
となっている。
私の所属していた内科医局に限っていえば、
大多数の人は助手にもなれずに、
医局の関連病院に就職させられる。
就職先について自分の希望がかなうことは珍しい。
「君は春からここに行け。」
と教授がひとこといえば、必ず行くことになる。
私のように、
途中で自分の意志で医局を抜ける者はものすごく少ない。
というか、ほとんどいない。
(注記:1999年の私の退局当時は少なかったが、
現在、いわゆる大学医局崩壊といわれる現象により、
自由意志による医局退局は、珍しくない行為となった)
さて、やっと本題に入る。
APLのことである。
APL: acute promyelocytic leukemia
(急性前骨髄球性白血病)
別名、AML-M3ともいう。
急性白血病は、大きく二つに分けられる。
骨髄性とリンパ性。
骨髄性、つまり急性骨髄性白血病の方をAMLという。
AMLには、細かくサブタイプがあり、
AML-M0、AML-M1、AML-M2・・・というように、
M0からM8までに分けられる。
そのうちのAML-M3のことを、
特にAPLと呼ぶ。
あの、アンディ・フグの命を奪った病気である。
一年目の研修医のとき、仲間の研修医たちから、
ブラックジョークではあったのだが、
「APLキラー」と呼ばれていた時期が、私にはあった。
APLの悪性細胞を殺す人、という意味ではなくて、
APLの患者を殺す人、という意味で。
その汚名で呼ばれていた頃、
私は一ヶ月半の間でAPLの患者さんを二人死なせていた。
一人目は脳出血で亡くなり、
二人目は腎不全から多臓器不全となって。
APLはAMLの中で最も激しいDICになることが有名で、
死に至るときは脳出血などで激烈に散ることが多い。
DIC: disseminated intravascular coagulation
(播種性血管内凝固症候群)
DICとは、ある原因によって、
全身の血液に致死的な異常を来した状態であり、
その原因になりうるものとして、
白血病や悪性リンパ腫などの血液系腫瘍や、
重症感染症、重症外傷、重症膵炎、大きな手術、
全身性血管炎、末期の固形癌、四肢壊死などがある。
DICの状態になると、
全身の血管という血管で、
血液が血管の中で固まりやすくなったり、
反対に出血しやすくなる。
DICは、
その原因によって色々なタイプがある。
AMLなどの血液疾患では、
出血しやすいタイプのDICになりやすい。
敗血症など重症感染症では、
血液が固まって血管が詰まりやすいDICとなる。
固形癌や全身性血管炎や壊死や外傷などでは、
その中間のタイプになりやすい。
私が研修医だった頃、
このDICの、タイプごとの診断と、
そのタイプにあわせた治療とが、
大きく切り開かれていった時代だった。
私は「APLキラー」などと呼ばれ悔しい日々だったが、
まさに、その新しい時代の最前線にいた。
ひとりではなく、常に二人で。
そう、私のオーベンと共に。
私の血液内科としてのマスターであるオーベンと共に。
私のオーベンはとても腕のいい人だった。
学ぶべきところが多く、たくさん教わった。
そして缶コーヒーやラーメンをよくおごってくれた。
最初の数ヶ月の間、私たち二人で、
何人か余命の少ない白血病の人を担当し、
そして、何人か二人で最後を看取った。
そんなある日、オーベンが私にいった。
「明日、新規発症のAPLの人が入院する。
一緒に主治医をやる気はあるか?」
フレッシュなAPLを担当したがる研修医は少ない。
ほとんどの研修医は怖がって逃げる。
「やります!」私はオーベンに即答した。
翌日、AさんというAPLの人が入院した。
まず入院時の検査をしないといけない。
私は最初に心電図を記録した。
Aさんの前胸部に、2cmほどの丸い吸盤を6個付けた。
終わってから、それらの吸盤を胸から外した。
そのとき、私は全身が凍った。
丸い吸盤を外したところの全てに、
大きな「血豆」ができていたからだ。
紫斑、つまり皮下出血などではない。
本当にいわゆる「血豆」だ。
針でちょっと軽く突いただけで,
プシューッと血を吹いてしまうであろう、血豆だ。
吸盤を皮膚に吸い付かせて、外しただけで、
吸盤と同じ大きさの血豆ができていた。
私は落ち着いているように見せかけ、
肘から採血することにした。
ヒモ状のゴムをAさんの腕に巻き、静脈から採血した。
ヒモ状のゴムを腕から外した。
またも、私は全身が固まった。
外したゴムの跡に沿って、
腕を一周する形で血豆ができていた。
腕をゴムヒモでしばっただけで、
グルッと血豆の輪ができたのだ。
私は悟った。
この人はいま、全身が血袋の状態なのだ!
いつ、体のどこから血を吹いてしまうかわからない、
極めて危険な、出血死する寸前の状態なのだ!
驚いた私はオーベンにすぐ報告した。
オーベンはすぐには信じなかった。
それほど重篤な出血傾向は、
自分でさえ一度も見たことがないとのことだった。
今度はオーベンが固まる番だった。
その日から明日なき戦いが始まった。
毎日、血小板輸血や新鮮凍結血漿を輸血し、
そしてDICに対する治療に、
さらには大元であるAPL自体への治療・・・
できる限りのことをできるだけやった。
なんとか良くなってくれと祈るような気持ちだった。
しかし残念ながら一週間もしないくらいの内に、
Aさんは脳出血で亡くなった。一発だった。
Aさんの最後は、いまでも忘れられない。
夜、消灯の見回りの看護士が私のポケベルを鳴らした。
Aさんの意識がない、話しかけても完全に反応しない、
あえぐような息をしている、といって私を呼んだ。
私はAさんの瞳孔をみた。
瞳孔が点のように小さくなっていた。
いわゆるpin-point pupils(点状瞳孔)というものだ。
呼吸など生命維持を司る脳幹の内、
橋という部分が強いダメージをうけたサインだ。
緊急CTでも脳幹部の出血を確認した。
よりによって一発でアウトになる部分がやられた。
Aさんはその夜のうちに亡くなった。
少しオーベンのことを補足しておきたい。
私がその血液内科のオーベンの下についたのは、
医者になったその日からだった。
その人から、
私は医者としてのイロハのイから仕込まれた。
オーベンは、
私を怒る場合、二人きりのときが多く、
ほかの第三者がいるときは私を立ててくれた。
細やかな気遣いができる人だった。
第一印象は微妙だった。
優しいのにピリピリと神経質で、
寛容なのにとても短気で怒りっぽく、
明るいのか暗いのか、
落ち込んでるのか興奮してるのか、
ゴチャゴチャ混ざっててよく解らない人だと思った。
やがてその理由は分かった。
とにかく毎晩ろくに寝ないで、ろくに食べないで、
休みもなしで年中働き詰めで、
しかも一歩間違うとすぐに誰かが死んでしまうという、
すさまじいストレスの中でいつも苦しんでいると、
そのようなワケの解らない人になってしまうのだ。
私自身、
病棟で働きだしてみて同じ状態になったので、
身をもって実感した。
その病棟には、同じような変な医者がたくさんいた。
話を戻す。
Aさんが脳出血で亡くなって、私は落ち込んだ。
あまりに大きく強い敵に、相手にされず打ちのめされ、
泥の中に沈んで、もがいているような感じになった。
自分の非力さを呪い、無力感を味わった。
Aさんの入院中の検査データの結果が、
Aさんが死んだ翌週に全て揃ってきた。
オーダーしたその日に結果が出ない特殊な検査である。
凝固系と線溶系。
凝固と線溶の話を少ししたい。
血管の中の血液はうまくできている。
血管の中で血液がサラサラ流れているときは、
血液は液体のままで、決して固まったりしない。
しかし、血管のカベの一部がキズついて、
血液が血管のキズから漏れ出て出血するようになると、
うまいことに血液はそのキズの部分だけ固まって、
その血管のカベのキズを塞ぎ、出血を止める。
しかし、どんどん血液が固まり続けると、
血管の中を塞いでしまい、血が流れなくなるので、
血液の固まりが大きくなりすぎないように、
その固まりを溶かす力が働く。
そして血管のカベのキズが治れば、
固まりは全て溶かされてしまい、元に戻る。
この血液が固まる力を凝固といい、
固まりを溶かす力を線溶という。
凝固と線溶は、見事なバランスを保ちながら、
全身の血管と血液を守っている。
じつはDICというのは、
この凝固・線溶システムのバランスが崩れた状態であり、
凝固系が強いと血管が詰まりやすく、
線溶系が強いと出血しやすいのである。
Aさんのデータが揃ってきて分かったことは、
Aさんの、あの恐ろしい血袋の状態のとき、
凝固系はほとんど強まっていなくて、
線溶系の方だけありえないほどに強まっていた。
AさんのDICの治療において、私たちは、
凝固も線溶もそれぞれバランス良く薬で抑えていた。
とてもスタンダードなやり方だった。
しかし、本当にそれで良かったのか?
結果からいってしまえば、
線溶系をもっと大胆に抑えるべきではなかったか?
私は、データをグラフ化し、
オーベンに意見してみた。オーベンは黙っていた。
しばらくして、ある日オーベンが私に、
いつか聞いたようなセリフを再び話した。
「明日、新しいAPLの人が入院する。
一緒に主治医をやる気はあるか?」
「やります!」私は即答した。
二人目のAPLの患者である、
Bさんが緊急入院した。
私たち、オーベンとウンテンの二人は、
必勝を期していた。
今度こそは、この人こそは、
必ずや生きたまま元の世界に戻すのだ、と。
以下、
Bさんが入院する前日の私とオーベンのやり取り。
オーベン「APLのDICをどうやってコントロールする?」
私「まずは必要な補充です。
血小板1万以上をまず確保、
1万ないとその日に大出血するリスクがあるので。
できれば2万程度毎日キープがベスト。
あとはFbgなんですが、
APLだと入院時100未満の可能性もありますが、
目標は100以上キープ、150あれば安心。
ATIIIはAPL単独なら下がらないと思いますが、
敗血症が加われば下がるので80%キープが目標。」
オーベン「マーカーは?」
私「血小板は当然ながら毎日至急でチェックします。
採血当日に結果の出るD-D、FDP、Fbgは週三回、
ATIII、APTT、PTは週二回、それぞれ出します。
当日結果が出ないもので重要なものはTATとPIC、
これらも週三回出しといて、
結果が届きしだい自分の予想と答え合わせします。
あとα2PI、Plg、TMとかは週二回くらい。」
オーベン「治療は?」
私「線溶優位のAPLなのでまずはフサンでスタート、
副作用でカリウムが上がったらFOYに切り替え、
ただしFOY単独では線溶の抑えがいまいちなので、
トランサミンを加えたいところです。
PC(血小板輸血)は連日、FFP(新鮮凍結血漿)も。
データを見てですが必要なときには、
フィブリノーゲンやアンスロビンPをズドンと。
もし敗血症で凝固優位になるようなら、
その時点でトランサミンは中止して、
FOYにヘパリンを併用にします。
あとはさじ加減が問題となりますが・・・」
オーベン「うん、そんな感じでいいよ。」
このやり取りは読み飛ばしてもらってかまわない。
要するに、
私たちの当時の気合いが伝われば。
ただ、ひとつだけ、
「当日結果が出ないもので重要なものはTATとPIC」
ここの部分が、
あとで大事なキーポイントになってくる。
凝固系の強まりをダイレクトに数字にしたのがTAT。
線溶系の強まりをダイレクトに数字にしたのがPIC。
そのほかの検査マーカーは全て、
凝固や線溶の動きを間接的に表すだけにすぎない。
その意味では、
TATとPICこそが、毎日その日に知りたいものなのだ。
リアルタイムで最も知りたいものが分からない。
ここがDICのコントロールで困ることだった。
Bさんは入院時、正常な白血球が、
限りなくゼロに近かった。
白血球がないといとも簡単に細菌にやられ、
全身に細菌が散らばった状態の敗血症となる。
Bさんをまずセミクリーン・ルームに隔離し、
厳重な感染予防メニューを行った。
入院時、DICについては私たちの予想通りだった。
そして今回は、Aさんの時よりも、
線溶系をもっとしっかり抑える方針を取った。
一週間くらい経って問題が生じた。
Bさんが高熱を起こした。
細菌感染を表すデータも出た。
白血球がゼロの状況なので、敗血症に間違いない。
それもデータからは、かなり重い敗血症だった。
オーベン「これで凝固系が動いてしまうな。」
私「いままで線溶優位だったのが、
凝固優位に逆転するのか、
それともそこまではいかないのか・・・」
オーベン「まずは抗生剤の点滴だ。」
ここでまた問題がある。
抗生剤はすぐには効かないのである。
一般に抗生剤が効いているかどうか判定するのに、
およそ三日間は待つ。
つまりそれくらいしないとしっかり効かない。
抗生剤がしっかり細菌を叩くまでの間、
DICはどうなっているのか?
APLのDICらしく線溶優位なままなのか?
敗血症のせいで凝固優位に逆転するのか?
それともその中間なのか?
いまのDICに対する治療メニューは、
線溶系をよりしっかり抑えるためのもので、
凝固系に対しては強く抑えていない。
もしこの治療メニューのままで、
DICが一気に凝固優位になってしまったら・・・
凝固優位のDICは、血が固まって血管を詰まらせる。
私たちの現在の治療は、
血の固まりを溶かす力を抑えている。
つまり、もしこの治療メニューのままで、
DICが一気に凝固優位になってしまったら、
治療によって血管がより詰まりやすくなってしまう。
真っ先に詰まりやすい臓器は腎臓だ。
腎臓は細い血管が集まって全体ができている。
腎臓の細い血管が一斉に詰まってしまえば、
急性腎不全となる。
尿が出なくなる危険な状態だ。
血管を詰まらせないためには
治療メニューを正反対に変えればいい。
凝固系をよりしっかり抑えるメニューにすればいい。
じゃあ、治療メニューを簡単に変えられるかというと、
それはかなり勇気がいる。
なぜなら、
もしDICが凝固優位に逆転していなくて、
線溶優位なままだったとしたら、
治療メニューを凝固対策メインに変えたとたん、
命にかかわる大出血が起こるかもしれない。
そう、Aさんのときのように・・・
ここで前述のキーポイントが浮かんでくる。
「当日結果が出ないもので重要なものはTATとPIC」
凝固と線溶、それぞれいまどれくらい強いのか、
TATとPICでリアルタイムで知りたいのに、
この二つはその日には分からない。翌週に分かる。
ジレンマだった。
結局、私たちは治療メニューを変えないままにした。
DICは線溶優位のままだろうと予想して。
結果は完全に裏目に出た。
Bさんは腎臓の血管があっという間に詰まってしまい、
急性腎不全になってしまった。
腎臓内科に頼んで24時間持続の透析を始めた。
しかし一度狂った歯車は元に戻ることはなく、
Bさんは、
溶血による黄疸、胸水、肺うっ血、呼吸不全、
そして多臓器不全となり、
二週間ほど苦しみ抜いて亡くなった。
私はこの13年間で100人以上看取っているが、
Bさんの最期も忘れられない記憶のままだ。
例によってあとから、
Bさんの揃ったデータを整理した。
血小板、D-D、FDP、Fbg、ATIII、APTT、PT、
TAT、PIC、α2PI、Plg、PAI-1、TM、vWF・・・
また全部の種類のデータをそれぞれグラフ化した。
深夜の医局の誰もいない小部屋でじっと眺めた。
Bさんが敗血症になったあの日、
それまで低いままウロウロしていたTATが、
一気にビョーン!と高くなっていた。
あの日、Bさんの体の中で、
凝固系が一気に強まって線溶系を追い抜いていたことを、
私はまざまざと知った。
あの日、あのどうするべきかオーベンと迷った日、
迷わずトランサミンをやめてヘパリンを始めていれば!
たとえデータが揃っていなくても、
臨床的な状況判断だけで思い切って動いていれば!
オーベンにもグラフを見せた。
血液班の幹部の人たちにも。
幹部の人たちは誰も責めなかった。
ここまで徹底してDICの経過をグラフ化した者は、
それまでいなかったらしい。
なにしろそれまではDICといえばDICであって、
凝固優位だの線溶優位だの中間型だの、
そんなタイプ分けはまだ全然知られてなくて、
治療といえばヘパリンならヘパリン、
FOYならFOYと、ひとつに決まっていて、
それ以上は何も悩まないのがDICだった。
脳出血で死んでも、腎不全になっても、
「DICだから」で全てが許されていた。
少なくとも私の医局の血液班の外部ではそうだった。
でもこれからはそれではいけない、と、
そこから大きく前進しようとしていた新しい時代に、
私は血液内科の門を叩いたのだった。
一方で、仲間の研修医たちは騒ぎ立てた。
「あいつ、またAPLをステらせた(死なせた)ってな!」
「あいつって、APLキラーだよな~!」
私は彼らには一切弁解しなかった。
何もいい返す気になれなかった。
「お祓いに行こう。」
ある日オーベンがいい出した。
ステルベン(患者さんの死)が連続すると、
オーベンは「お祓い」をよくするらしい。
仕事が片づいたあと、
私とオーベンは夜中に近くの神社へ行き、
小銭を賽銭箱に投げ入れ、
そのあとラーメン屋に向かった。
オーベンがラーメンをおごってくれた。
これがオーベンの「お祓い」だった。
オーベンは私にいった。
「オレも研修医のとき、たくさんステった。
それでな、みんなには"デビル"といわれてたよ。」
二人で腹の底から笑った。ラーメンがうまかった。
翌月、医局でオーベンと血液班のチーフが、
二人で何か話していた。
私は二人に近づいていった。
関連病院から新たに発症したAPLの人が、
緊急で転院してくるらしいのだが、
私のオーベンがその主治医になることを、
ちょうどチーフに志願していた。
オーベンは寄ってきた私にいった。
「お前はAPLを二人もみて、もうボロボロだろ?
いま研修医の中で受け持ち患者の数も多いし。
ムリするな。今度はオレひとりで診るから。」
私はいい返した。
「そんなの関係ないです。
もう一回オレにも診させて下さい。」
血液班のチーフは私たちにいった。
「APLはな、クセのある病気で治療もクセがあるしな、
本を読んだだけだと身に付かないもんだし、
今度はほかの連中に持たせたいんだけどな。」
オーベンと私は食い下がった。
どうしても主治医にさせてほしい、と。
チーフはウーンとうなったあと、やがて折れた。
「じゃあ、お前たちにまた任せるよ。」
三人目のAPLの患者さんのCさんが入院する前の夜、
私は早く帰ってできるだけ寝ることにした。
またろくに眠れない日が続くはずなので、
せめていまのうちにと。
ゆっくり風呂に入って、少し音楽を聴いて、
電気を消して、0時くらいにはベッドにもぐった。
とにかく少しでも寝ておきたい。
しかし、これが全く寝つけないのだ。
AさんとBさんの死に際が何度も何度も、
繰り返し暗闇に浮かんでくる。
決して消えることもなく、何度も何度も。
私は横になっていられなくなり、
ベッドの上であぐらをかいた。
暗い壁が映画のスクリーンのようになってくる。
Aさんの両方の目蓋をこじ開けてみたら、
左右の瞳孔が点状瞳孔、
つまりpin-point pupilsになっていた場面が浮かぶ。
学生時代は、
「pin-point pupilsって"目が点"だな! ぶはは!」
などと同級生と笑ってたこともあった。
Aさんの瞳で実物を直視してからは全く笑えない。
あの日の夕方まで普通に会話をしていたAさんが、
その夜、突然そうなってしまったことを思い出した。
Bさんが大きくカッと両目をあけて、
ゼーゼーゼーと苦しそうに速く荒く呼吸しながら、
苦しまぎれに「助けて・・・先生・・・助けて・・・」と、
力を振り絞っていた場面が浮かぶ。
私はあのとき、何もしてやれなかった。
私はいつのまにかコブシを握りしめていた。
大きく目を見開いて闇の中のスクリーンを見続けた。
歯を食いしばってギシギシときしませた。
どこからか声が聞こえる。
聞き慣れた仲間たちの声だ。
APLキラー・・・APLキラー・・・APLキラー・・・
寝つけない。少しでも眠りたいのに。
頭が興奮してまったく冷めてくれない。
AさんとBさんのヴィジョンが次々と浮かぶ。
結局その夜は、朝まで一睡もできなかった。
朝になって鏡で自分の顔を見てギョッとした。
両目が真っ赤だった。
黒い瞳の両脇にあるべき白目の部分が、
完全に真っ赤に充血していた。
私は真っ赤な目を隠すこともなく病院にいった。
いつも通りのつもりで病棟にいた。
いつもと変わらないつもりで朝から働きだした。
オーベンが病棟にやってきた。
私は驚いた。
オーベンも目が真っ赤だったのだ。
オーベン「眠れたか?」
私「いえ、朝まで全然眠れませんでした。」
オーベン「オレもだ。」
私「・・・・・・」
オーベン「オレはAさんとBさんの弔い合戦のつもりで、
Cさんを診る。」
私「オレもそうです。」
オーベン「別にあの二人が生き返る訳じゃないけどな。」
私「・・・・・・」
オーベン「でも、ほかにできることはないからなぁ。」
私「・・・・・・」
赤い目の二人が立っていた。
赤い目のオーベンとウンテン。
まだ顔を見たこともないCさんをじっと待ちながら・・・
APLの話はこれで終わり。
このブログのRED EYEというタイトルは、
実はこのエピソードが由来となっている。
オーベンの下についていたウンテン時代のあと、
二年間、関連病院への出張に出て、
そのあと医局に戻った。
7年近く大学医局に在籍していたのだが、
医局をやめてしまう前は、私はオーベンだった。
私の下にウンテンがいた。
このウンテンの話はまたいつかしてみたい。
ということで、
ウンテンでもオーベンでもない時期があった。
ウンテンを卒業し、オーベンになる前の頃。
その頃が最も思い出が多い。
ウンテンでもオーベンでもない頃は、
ひとりで主治医をしていた。
これを「ひとり主治医」という。
そして「ひとり主治医」の頃に、
BMTをよくやっていた。
BMT・・・骨髄移植のことである。
BMT: bone marrow transplantation
そう、私は骨髄移植をよくやっていた。
というか、よくやらされていた。
というか、馬車馬のように使われていた。
というか、ハサミかカッターのようだった。
私をハサミのように使ってくれた人がいる。
移植チームのリーダー、F助教授。
この人ほど私を高く評価してくれた人はいない。
そして、この人ほど私が尊敬した人もいない。
F助教授は私の恩師だった。
(※2025年追記:
「助教授」は2007年から「准教授」の呼称になっている)


