私の医局には教授の下に4人の助教授がいた。
F助教授はその中のひとりだった。
大学病院の高密度無菌治療部の責任者であり、
そして血液班の幹部のひとりだった。

F助教授に出会って、私は人間的に変わった。
すぐには変わらなかったが、ゆっくり何年もかけて、
「あ、オレって変わったな・・・」と気付くようになった。
F助教授の影響を受けたとしか思えない。

F助教授は、信じられないくらいいい人だった。
それだけではない。
鉄の意志をもち、粘り強く、決して自分に負けない。
しかしほかの人に対しては、
温かく、優しい。

私はかつて、わがままで自己中心的で、
周りの人に冷たくて、
イヤミっぽく、高圧的だった。

「オレはいままでこんなに頑張って、
苦労して努力してここまで来たんだ。文句あるか!」
という雰囲気がにじみでてるような面があった。
たとえ口に出さなくても。

いまはだいぶ変わったような気がする。
いい意味で力が抜けた。


どうでもいいことではあるが、
私がストレスで爆発しそうになると、
F助教授はタイミングよく焼き肉をおごってくれた。

かつてオーベンはラーメンをおごってくれたし、
F助教授は焼き肉だ。
ちなみに私は自分のウンテンに寿司をおごった。
回らない寿司である。たった一回だけだったが。


しばらく「ひとり主治医」だった時期の話をしたい。
F助教授に使われていた頃のエピソードである。

 

 

 

さて、
私の属していた移植チームについて少し。
骨髄移植(BMT)の実績年数でいえば、
日本でも古い部類に入る、いわば老舗だった。

日本に骨髄移植という治療法を定着させた、
先駆け的な大学とか病院とかがいくつかある。
時に競い合い、時に助け合い、
ああでもないこうでもないと共に悩みながら、
日本に新しい医療を根付かせた大学とか病院・・・

私がかつて属していた所も、
そのようなパイオニア的な施設のひとつといえた。

私がネボケながらアクビをしつつ働いていた、
高密度無菌治療部というセクションは、
日本の国立大学の大学病院としては、
国内で初めて公式に設置された無菌治療部だった。


あ、そうだ。骨髄について。

体の骨には、中の方に空洞の部分があって、
その骨の髄の部分を骨髄という。
骨をタテにスパンと割って断面を見てみると、
骨髄はイチゴジャムそっくりである。

赤くてトロッとしたイチゴジャムの中には、
血液細胞と、その元である造血幹細胞などが、
みっちりと詰まっている。
全身の血液に血液細胞が巡っているのだが、
骨髄とは、その血液細胞の工場なのだ。

血液細胞としては、
赤血球、白血球、血小板があげられる。
どれも体が生きる上で不可欠なものだ。

成熟した血液細胞に育つ前は、
若くて原初的な発育段階があるのだが、
成長過程で一番若いものを、ブラストという。

白血病というのは、
このブラストが病的にたくさん増えてしまう病気だ。
ブラストが増える場所は骨髄である。
だから白血病は、骨髄の病気なのである。


白血病の白血病たる由縁であるこのブラストに、
普通まず抗ガン剤の治療をする。
多くの種類の抗ガン剤を使うこの治療のことを、
化学療法という。

医療者の間では、
この化学療法(chemotherapy)のことを、
「ケモテラ」とか「ケモ」などと呼ばれる。

ちなみに血液内科の間では、
抗ガン剤でケモテラすることを「叩く」という。
「行け! 叩け!」とか、
「何してるんだ、いますぐ叩け!」などと、
上司から部下へと指令が飛んだりする。

昔、こういう言葉が流行っていたらしい。
「内科見殺し、外科切り殺し、放射線科は焼き殺し」
血液内科の間では、ケモテラで叩きすぎて、
合併症で患者を死なせてしまうことを、
「叩き殺し」という。

とかくこの業界の隠語ではこの手の言葉が多い。
殺す、殺した、殺してやれ・・・

 

 

 

通常のケモテラだけでは治療に限界があるので、
骨髄移植(BMT)が開発された。

白血病は骨髄でブラストが病的に増える病気なので、
骨髄をいったんカラッポにして、
ほかの人の正常の骨髄を入れれば、
悪い細胞を根絶やしにできるではないか・・・
というアイデアで、BMTは生まれた。

骨髄をカラッポにするのは、
超大量、超致死量の複数の抗ガン剤と、
全身への放射線の照射による。

しかし、BMTにも欠点がいくつかあった。
骨髄を提供してくれる人をドナーというが、
ドナーさんから骨髄をもらうときに、
いろんな制限があるのだ。

ドナーから正常な骨髄液を取るには、
骨盤の骨に何回も太い針を刺して、
およそ1リットルも骨髄液を吸い取らないといけない。
そのためには、全身麻酔をかけて、
オペ室で手術をしないといけない。

全身麻酔には、必ず麻酔事故のリスクが伴う。
最悪、死亡する危険も決してゼロではない。
100%安全な全身麻酔などありえない。

しかし、ドナーの安全は100%であるべきだ。

骨髄液を提供してくれるドナーは病気の人ではない。
ドナーさんは患者の家族のこともあるし、
骨髄バンクに登録してくれた人のこともあるわけだが、
全く健康な人が、善意で、ボランティアとして、
自分の健康な体の一部をわざわざくれるのである。

だから、ドナーの安全は100%を目指すべきなのだ。
全身麻酔で手術によって骨髄液を取るという、
BMTのやり方だけでは決して不十分なのである。

また、別の問題もある。
イチゴジャムのような骨髄は、中年以降は脂肪化する。
骨髄のイチゴジャムは年をとるにつれ、
だんだんと少しずつ脂肪に置きかわっていく。
それは、血を造る力も落ちていくことに等しい。

要するに何がいいたいのかというと、
中年以降のドナーさんたちからは、
せっかく手術しても骨髄液を十分に取るのが難しい。


これらのBMTの問題から、
別の移植方法が開発された。
PBSCT・・・末梢血幹細胞移植。

PBSCT: peripheral blood stem cell transplantion

末梢血とは、手足から普通にとれる血液のことで、
幹細胞とは、血液細胞の元となる若い細胞を指す。

PBSCTとは、
G-CSFという白血球を増やす薬を使って、
血液の元となる造血幹細胞を、
骨髄から末梢血にこぼれさせて、
それを大きな機械を使って手足から採取する方法・・・
なのである。

だから、
全身麻酔などしないし、手術もしないで済む。
移植細胞を取られる人の全身にかける負担は少ない。
PBSCTは、BMTに比べて、
ドナーさんにとっては、より手軽な移植方法である。


私が血液内科として移植医だった当時、
造血細胞の移植の方法は、大きく4種類あった。

auto-BMT・・・自家骨髄移植
allo-BMT・・・同種骨髄移植
auto-PBSCT・・・自家末梢血幹細胞移植
allo-PBSCT・・・同種末梢血幹細胞移植

autoは「自家」、alloは「同種」を意味する。
自家移植とは、自分の細胞を自分に戻すことで、
同種移植とは、他人の細胞をもらうことだ。
一般に「骨髄移植」というとallo-BMTを指す。

当時、この中で同種PBSCTだけが、
日本では、保険適用がまだ認められていなかった。
欧米での治療成績では、同種BMTと全く差がない。
大きな可能性のある有力な移植方法といえた。

日本で同種PBSCTを保険診療として認めさせて、
広く全国の移植施設で一般化させる必要があった。
そのための臨床治験が、
いよいよ始まることになった。

まず、
パイロット・スタディというものが予定された。
全国で20例だけ先行的に同種PBSCTの治験をして、
その成績をみて、さらに大きな治験成績を出し、
厚生省にその結果を堂々と提出し、
保険が通る治療として認可してもらうのだ。

全国でたった20例だけのパイロット・スタディ。
もしこの治療成績が悪ければ、
その時点で同種PBSCTの保険認可が絶望的になる。

可能な限りこの20例の移植成績を、
バッチリといい数字を出して、
目に見える結果を出さないといけない。

最高の理想をいえば、
全例移植成功でなおかつ、死亡者ゼロがベストだ。


その後の日本の移植診療の流れを決める、
とても重要なパイロット・スタディだった。

私の移植チームでも1例を割り当てられた。
F助教授は、その主治医に私を起用した。

 

 

 

allo-PBSCT、
つまり同種PBSCTを保険認可させるための、
パイロット・スタディの治験の患者に、
Dさんが選ばれ、本人と家族に説明して同意を得た。

治験の意義や目的、
同種BMTと治療効果や成績が同じこと、
白血病の再発率、5年生存率、
合併症の種類や頻度、移植関連死亡率、
それぞれ丁寧に説明して納得してもらった。

無菌治療室に入室し、移植前処置が始まる。
前処置とは、
超致死量の複数の抗ガン剤と全身放射線照射のことだ。

Dさんの家族であるドナーから、
末梢血幹細胞を機械で採取して、
その中に十分に幹細胞があることを検査で確かめる。
そしてDさんの体の中に輸注して入れていく。

前処置が効いてきて、
Dさんの骨髄が一週間かけてカラッポになっていく。

毎日、無菌室の個室にDさんは閉じ込められている。
滅菌メニューを日々こなしていく。
血小板輸血を入れまくる。
いろんな副作用の症状に対処していく。

やがてドナーさんの細胞がDさんの骨髄に根付いて、
新たな細胞を作りはじめる。
ドナーさんからもらった細胞が、
Dさんの全身に満ちていく。

順調に進んでいった。最初の一ヶ月くらいは。


移植から一ヶ月後、運悪くDさんは、
重症型の急性GVHDになった。

GVHD: graft versus host disease
(移植片対宿主病)

急性GVHDは、
移植後合併症のひとつであり、
しかも「重症型」の急性GVHDは、
山ほどある多くの移植後合併症の中でも、
最も危険なものだ。

ある意味、骨髄移植の歴史は、
このGVHDとの戦いの歴史といってもいいほどで、
その、最も怖れるべき重症急性GVHDに、
Dさんはなってしまった。

最悪の事態だった。

私の属していた血液班の移植の歴史は、
その当時すでに20年近かったが、
それまで「重症型の急性GVHD」から生還した人は、
まだひとりもいなかった。

文字通り全滅だった。全員死んでいる。


サッカーのワールドカップ予選のテレビ中継では、
「絶対に負けられない戦い」
というキャッチフレーズが連発される。

Dさんの命のかかった移植であり、
同種PBSCTを日本全体に広めるための治験でもある、
このDさんの移植は、
まさに「絶対に負けられない戦い」といえた。
それなのに絶体絶命のピンチに陥ってしまった。
それも絵に描いて額に飾ったような・・・

絶対に負けられない戦いでの絶体絶命のピンチ。

 

 

 

ああ、タイトルがSurvivorだから、
Dさんがどうなったかバレてしまうな。
まあ、いいや。


「最初の二年間はみんな死んだ。」
という昔話をよく聞いた。
APL(7)で登場した血液班チーフのセリフである。

この人はかつて移植のリーダーだった。
そして、私の大学で移植を始めたとき、
ちょうど若手の主治医をしていた世代である。
F助教授の兄貴分のような人だった。

シアトル・グループという世界で最も有名な、
移植グループがある。
マリナーズのある、あのイチローが住む、
アメリカのシアトルである。
骨髄移植を世界に広めた総本山として高名だ。

そのシアトル・グループが使用し、
世界に公表しているシアトル・マニュアルがある。
骨髄移植のマニュアルである。
世界の移植医にとってのバイブル。

血液班チーフの世代が若手だった頃、
「うちでも骨髄移植をはじめよう!」
とみんなで団結して、見よう見まねで始めたそうだ。

まずはシアトル・マニュアルを、
みんなで手分けして日本語に訳して、
日本語のマニュアルを作ったそうだ。
それで「よし! これでいくぞ!」と。

その結果、冒頭のチーフのセリフとなる。
「最初の二年間はみんな死んだ。」


これでいくぞ!で始めてみたら誰も助からない。
「三年目で初めてやっと生き残る人が出た。」
三年目でみんな成功するようになったのではない。
やっと「死なない人」が出るようになったのだ。

その後、年を重ねるうちに助かる人が増えていく。
うまくいくパターン、ダメなパターン、
そういうものが掴めてくる。

マニュアルはマニュアルにすぎない。
実際に現場でそれをどう生かすのか、
それはたくさん経験していかないと分からない。

「いまはさ、移植後合併症で死ぬっていってもさ、
移植後50日とか80日とか、それくらいもつだろ?」
チーフはしみじみという。

「昔はな、移植後7日とか10日とか15日とか、
それくらいでバタバタ死んでいったんだよ。」

「でもさ、心臓のオペとか、脳外科のオペとかも、
やりはじめは同じ感じだったんじゃないかな?」

生き証人である先輩たちから、
私はよく昔話や苦労話をしっかり聞いた。
とても興味深かった。

私たちの世代が移植をやる上で、
当たり前のこととして当たり前にこなすことが、
それらのひとつひとつが、
最初は「当たり前のこと」ではなかったのだ。

全て先輩たちが試行錯誤しながら、
「これはこうするべき」という認識を共有していき、
そのプロセスから「当たり前のこと」になったのだ。
死亡者という貴重な犠牲を出しながら。


私はある一冊の本を読んだことがある。

白血病で息子さんを亡くした父親の手記である。
若くして白血病になってしまい、
通常の化学療法では治らなくて、
このままでは確実に死んでしまうという状態で、
その頃、最新の治療として登場した骨髄移植に、
わずかに残された希望を賭けた人、の父親だった。

私の大学病院のかつての患者さんだった。
そして、
ちょうどチーフたちの世代が移植を始めた頃に、
なかなか助けられなかった時代に、
移植を受けた人だった。

その人のお父さんの書いたその本には、
その若い患者さんや家族が、
どんな気持ちで「最新の治療・骨髄移植」を受けたか、
とてもよく表現されていた。

「あとはこれしかない!」
「もうこの治療に全てを賭けるんだ!」
「これでダメならもう仕方がない!」
読んでいて、ひしひしと覚悟が伝わった。

その若い白血病の患者さんは、
移植後合併症で、残念ながら亡くなった。
「最初はみんな死んだ」という時代の人だ。

そのお父さんは、
息子が死んだのは無念だし悲しいのだが、
できることは全部やった、という気持ちがあったらしい。
少なくとも本にはそう書いてあった。


私の大学病院は、私がいた頃、
AML、ALL、AA、MDSなどの通算移植成績は、
全国平均と比べて同じレベルか、
ほんの少し上とか下とかというくらいだった。

しかし、CMLの成績はすごかった。
CMLは移植後5年生存率が、なんと85%だった。
世界平均も日本全国平均も65%なのに。
日本のトップの名古屋グループでもそれくらいなのに。
私がいたころの私の施設は、
あくまでCMLの移植にだけ限っていえば、
世界でもトップクラスといえた。
お家芸だった。

AML: acute myelogenous leukemia
(急性骨髄性白血病)
ALL: acute lymphocytic leukemia
(急性リンパ性白血病)
AA: aplastic anemia
(再生不良性貧血)
MDS: myelodysplastic syndrome
(骨髄異形成症候群)
CML: chronic myelogenous leukemia
(慢性骨髄性白血病)

世界に誇れるくらいのお家芸のある施設であっても、
そこまで辿り着くのに、
屍の山を乗り越える必要があった。
「最初はみんな死んだ」という時代さえあった。

多くの主治医ががんばって、
多くの看護士や検査技師ががんばって、
多くの患者さんと家族ががんばって、
それで現在の移植チームがある。


このようにして20年近くの歴史を刻んできた。
その20年近く歴史をもつこの移植チームでも、
重症型の急性GVHDは、
それまでに誰ひとり助かっていない。

一般に重症急性GVHDの死亡率は、
およそ80%といわれる。
世界中のどこの移植施設においても、
救命するのは困難を極めた。

その重症急性GVHDに、
Dさん、F助教授、そして私は、
これから全力で戦いを挑むのだ。

 

 

 

GVHDについて。

GVHD: graft versus host disease
(移植片対宿主病)

移植片とは、ドナーのリンパ球、
宿主とは、移植患者の体のことである。

この名の通りにGVHDは、
移植患者の体に入れられたドナーのリンパ球が、
移植患者の体を攻撃することで起こる。

リンパ球は、免疫系の司令官である。
大変な力をもっている。
免疫系というのは、軍隊のようなシステムで、
本来の役割は、
外から侵入する細菌やウイルスを攻撃したりする。
要するに「自分の体」以外のものを攻撃する。

ドナーのリンパ球が、他人の体に入ったら、
他人の体は「自分の体」ではないので、
問答無用に攻撃する。

それが移植患者に起きるのがGVHDである。

GVHDには、急性と慢性とがある。
これらは起きる時期も違い、病気のタイプも違う。
慢性GVHDはここでは省略する。

急性GVHDになると、主に、
皮膚と消化管と肝臓がやられる。
この三つは、それぞれダメージの程度を分けられ、
それらを総合して、
急性GVHDとしての全体のグレードが評価される。
グレードは1、2、3、4の四段階に分けられる。

このうちグレード3と4をまとめて重症型という。
つまり、グレード3以上が重症急性GVHDである。


GVHDは、重症になると致死的になりうるが、
全くの悪者というものでもない。

移植医はみんな、移植患者に、
ごく軽く急性GVHDが出ることを願っている。
グレード1~2で済めばベストだと考えている。
逆に急性GHVDが全然出ないと心配する。

なぜか?

ドナーのリンパ球は、移植患者の体の中で、
病的なブラストつまり白血病細胞をも攻撃してくれる。
だから、重症にならなくて軽く済んだGVHDは、
それはそのまま白血病に対する再発予防になる。

移植後に急性GVHDが全く出現しないと、
担当の主治医は、
白血病があとから再発しないか心配になるのである。
白血病が再発したら結局は命にかかわる。

このように急性GVHDには、
メリットとデメリットの両面がある。
全くないと白血病が再発しやすい。
かといって重症になってしまうと死んでしまう。

とても微妙で悩ましい。


思うにこれはGVHDに限らない気がする。
100%良いものなどこの世にはないだろう。
100%悪いものもやはりないだろう。
あらゆるもの全て、いい面とよくない面があると思う。

きっとそんなものだろう。全部。

 

 

 

立ち上がりは静かだった。
Dさんの急性GVHDのことである。

移植後三週後くらいに、
Dさんの両手の指先や手の平が赤くなった。
両足の裏も赤くなった。
急性GVHDのグレード1。

「うん、出たな、これくらいでいいかもな~」
と私は思った。
全く出ないと困る。ごく軽く出て欲しい。


シクロスポリンという薬がある。
免疫抑制剤である。リンパ球の力を抑える薬。
同種のBMTやPBSCTでは、
移植の直前からスタートし、いつまでも続ける。
移植後何年たっても続ける。

シクロスポリンが最も大切な時期は、
移植の直後から数ヶ月である。
急性GVHDを予防するために大切なのである。
急性GVHDはあらかじめ予防しないといけない。


輸血後GVHDという病気がある。
出血を伴う手術などで、大量の輸血をしたときに、
輸血の中に入っていたリンパ球が、
輸血された患者の体を攻撃する病気である。

全身が真っ赤になりヤケドのようになる。
そしていろんな臓器がやられて、多臓器不全で死ぬ。
致死率は95%以上といわれる。

輸血後GVHDは、気付いたときは、
全身ヤケド状態かつ多臓器不全になっている。
診断がついた時点で手遅れの状態。
効果的な治療法はない。

だから予防するしかない。
予防する方法は、輸血するときに、
輸血に軽く放射線をかけてリンパ球を殺すことだ。


移植後の急性GVHDも、
メカニズムは、輸血後GVHDと同じだ。
同じ原理でおこる。

ただ違うのは、
移植後の急性GVHDは、
重症にならないように、軽く済むように、
最初から予防薬を使い、
毎日、いまかいまかとGVHDのなりはじめを、
移植医が待ち構えていることだ。

なにも予防をしなければ、
そしてなりはじめを待ち構えていなければ、
輸血後GVHDのように致死率95%のはずなのである。
移植医は、そのような危険なものを、
当たり前のものとして相手にするのである。
移植患者の全員において。

輸血後GVHDの予防のように、
放射線で体に入れるリンパ球を殺すことはしない。
移植ではドナーのリンパ球こそが大事だから。
ドナーのリンパ球こそが、
白血病の再発を抑えてくれる、
大事な大事な切り札だから。

なので、移植後のGVHDの予防は、
リンパ球は殺さずに、
免疫抑制剤でコントロールする方法を取る。
そのためのシクロスポリンである。


話を戻す。
Dさんに移植後三週間で急性GVHDが出た。
当然、私は毎日いまかいまかとそれを待っていた。
そして、出てきた初日は、
「お、来た来た、これからだね~」
と気を引き締めた。今はまだグレード1にすぎない。

私は急性GVHDのことを、
「移植後の赤い虎」と勝手に呼んでいた。
ひとりだけであだ名を付けていた。

Dさんの「移植後の赤い虎」を飼い慣らせるかどうか、
それがDさんの移植の成否を分ける、
ひとつの大きなポイントとなる。

 

 

 

横道にそれてばかりで、
なかなか話が前に進まない。
でも、すんなりスムーズに話が進んでも、
それはそれできっとつまらない。

APLの話を読んだ人は、
オーベンと私の二人のことを、
なんちゅうヘコたれない粘着なヤツらだ、と、
半分あきれながら感じたかもしれない。

しかし、
二年間みんな死んだのにそれでも移植を続けた、
血液班チーフの世代の方が遙かにスゴい。

血液班チーフとF助教授の二人が、
こんな風に話していたことが何度かある。

「Eさんって本当にキレイだったよな・・・」

かつてEさんという超美人の患者さんがいたらしい。
女優やアイドルでもいないような美形だったと。
白血病で移植をして、そして死んだそうだ。
チーフが移植リーダーでF助教授が若手の頃に。

二人はいまだにEさんのことを思い出して、
遠い目をして懐かしむのだ。

その二人を見て、私は思った。
ああ、この人たちはEさんの弔い合戦を、
そのあと何年もずっとやっていたのだろうな、と。


APL(1)に出てきた病棟の鬼軍曹が、
なぜ鬼のように怖い人になったのか、
やはり過去と関係があるのだろう。

Dr.になって最初に受け持った患者が死んで、
鬼になる前の研修医時代の鬼軍曹は、
病室でそのまま涙を流したとのことだった。

「今は鬼なのにそんなオイオイ泣いていたなんて・・・」
というのはきっと間違った解釈なのであって、
本当のところは、
人目をはばからず病室でオイオイ泣いてしまうような、
心の優しい人だったからこそ、その後に鬼になったのだ。
鬼軍曹が鬼のように研修医をシゴくのは、
多分、それが患者さんたちへの気持ちなのだろう。


で、再びDさんの急性GVHDのことである。
グレード1のごく軽い程度なので、
まずはそのまま様子をみた。
予防薬のシクロスポリンは、同時に治療薬でもある。

その数日後、皮膚の赤みが広がった。
両手の前腕、両足のすね、ふくらはぎ。
高い熱が出た。
下痢が目立ってきた。一日で1リットル近く。
急性GVHDのグレード2と診断した。

グレードが1から2に進んだので、
シクロスポリンに加えて、ステロイドを開始した。
薬の量、種類の選択、使うタイミング、
すべてマニュアル通りだ。

ステロイドを加えてから、
熱が引いた。下痢も減った。
皮疹も範囲が小さくなり赤みも軽くなった。
ステロイドが効いている。

「うん、今度こそこれくらいでいいな~」
私はしめしめとほくそえんだ。

しかし、私の見通しは甘かった。
さらに数日後、ある日突然、一気に悪化した。
Dさんの全身の80%くらいの皮膚が真っ赤になった。
再び高熱が出た。
下痢が2リットル/日に急に増えた。
下痢には血も混ざっている。

総合的に、急性GVHDのグレード3と診断した。
グレード3以上となったので「重症型」だ。

 

 

 

その日、つまりDさんの急性GVHDが、
一気にグレード3に進んだ日は、日曜日だった。

私は日曜日だけは、いつもより遅めに起きて、
昼頃に病棟に顔を出すことにしていた。
それがその日は、
午前中から無菌室の看護士さんに、
「Dさんが一大事!」と連絡を受けて、
急いで駆けつけるハメになった。

F助教授に連絡をとって報告した。
F助教授は大学にいた。
あと血液班チーフも医局にいたので、捕まえた。

日曜の朝っぱらから幹部がゴロゴロと大学にいる・・・
「ああ、オレは絶対に40才前にここをやめたい!」
と私が密かに決心した瞬間であった・・・

ということで、
Dさんの治療方針をどうするか、三人で相談した。

私「・・・などからグレード3と判断します。」
F助教授「ステロイドはもう使ってるんだよな。」
私「そうです、2mg/kgですでに使ってます。」
チーフ「それで一気にグレード3を超えたんなら、
    やっぱりパルスだわな。」
F助教授「マニュアル通りならパルスだな。」
私「パルスかぁ・・・」
チーフ「パルスでいい思い出はないけどね・・・」
私「・・・・・・」

パルスとは、ステロイドの超大量療法のことである。
ステロイド・パルス療法という。
一般的な量とはケタの違う量で三日間だけズドンといく。
いろいろと副作用や合併症もでやすく、リスクを伴う。


前回のSurvivor(7)から、
マニュアル、マニュアルと連発しているが、
急性GVHDの予防と治療に関しては、
非常にマニュアル重視の傾向が強い。

というか、BMTやPBSCTなどの移植全体を通して、
多くの約束事や手順が決まっていて、
そういう傾向が強い。

無菌室入室前の検査と滅菌、
入室後の検査と処置、
毎週定期的にチェックする検査項目、
前処置の抗ガン剤の選択と量、全身放射線照射の強さ、
移植する細胞数、移植に要する輸注時間、
GVHDの予防および治療、
肝VODの予防、ヘルペスウイルスの予防、
その他のウイルスの予防、
細菌感染の予防、真菌感染の予防、
出血性膀胱炎の予防、
口内炎の対処、消化器症状の対処、
シクロスポリンの血中濃度、
輸血の目標数値、白血球をふやすG-CSFの量、
電解質の数値の保持、摂取カロリー数・・・

もっともっとたくさんある。
ここに書ききれないほどある。
もう約束事、つまりマニュアルだらけである。

なぜこんなに決まり事が多いのかというと、
それらがなかったら死人が出るからなのだ。
貴重な犠牲と引きかえに、
ひとつひとつ「当たり前のこと」が確立していったと、
以前書いたが、それはこういうことなのである。


昔、骨髄移植の草創期、
シアトル・グループを見よう見まねで、
よしっ行くぞ!で移植をやり始めた時代は、
なんと、
「マニュアル破り」があったらしい。
主治医が確信犯的にマニュアルを破るのである。

世代が上の先輩から、
ある経験談を聞いたことがある。
前処置で使う、抗ガン剤の量について、
肥満者の移植をするときに、
どうしても納得ができなくてマニュアルを破ったと。

意図的な「マニュアル破り」である。

骨髄移植の前処置、
つまり患者の骨髄をカラッポにするために、
超致死量の抗ガン剤を、
いくつか組み合わせて使うと、前にも書いた。

超致死量・・・
「致死量をはるかに超える量」という意味だ。
なかなか恐ろしい言葉である。
一般的な化学療法よりケタの違う量を使う。

先輩が昔「マニュアル破り」をしたのは、
その時の患者が大変な肥満者だったからだ。
シアトル・マニュアルを日本語に訳した、
当時のBMTマニュアルでは、
前処置のときの抗ガン剤の量は、
患者の標準体重から計算しなさい、となっていた。
というか、現在までずっとそうだ。
移植医にとっての常識である。

標準体重・・・
これくらいの身長だったらこの体重が理想的です、
という身長から割り出される値である。
実際の体重が標準体重である人は少ない。

骨髄移植の前処置の抗ガン剤の量は、
患者の実際の体重ではなく、標準体重で計算する。
標準体重はその人の身長によってのみ決まる。

具体的にはこういうことだ。
身長が170cmであれば、
体重が60kgの人も、80kgの人も、100kgの人も、
みんな同じ抗ガン剤の量になりますよ、と。

「マニュアル破り」をした先輩は、
それが正しいやり方だとは信じられなかったのだ。

肥満者に標準体重で抗ガン剤の量を決めたら、
実際の体格に対して、薬が少なすぎるはずだ、と。
前処置が弱くて骨髄をカラッポにできなかったら、
その後に移植するドナーからの骨髄細胞は、
残ってしまった患者の細胞に攻撃されてしまう。
これを拒絶反応という。
拒絶が起こったら移植は失敗だ。


その話を聞いたとき、私はハッとした。
私自身がはじめてマニュアルを読んだとき、
確かに同じ疑問をもった。

一般的な通常の量で化学療法を行うときは、
抗ガン剤の量は、ほとんどの場合、
体表面積から計算して決める。
体表面積は身長と体重から割り出される。
つまり、普通の化学療法での量は、
身長と体重の二つで決まる。
まさに、その人の体格で決まる、という感じである。

だからこそ、
骨髄移植のときだけなぜ標準体重なのだ?
なぜ同じ身長なら60kgでも100kgでも同じ量なのだ?
と先輩は強く疑問に思ったわけで、
初めてマニュアルを読んだときの私もそう感じた。

マニュアルには注意書きが付いている。
肥満者は脂肪に前処置の抗ガン剤が蓄積されて、
体から排泄されずにあとから過剰に効いてしまう、と。

通常量の化学療法と移植前処置は違う、
超致死量の世界では通常量での常識は通用しない、
とでもいわんばかりだ。

「注意書きは昔からあったさ。
それでもオレは信じられなかった。
だから上司にな、
どうしても納得できないから実測体重でやらせてくれ!
ってオレは頼んだんだ・・・」
先輩はシブい顔で私に語る。

先輩の「マニュアル破り」の気持ちがよくわかった。

私は初めてマニュアルを読んで驚いたとき、
身近な先輩に確かめたものだ。
「これな、この通りに標準体重で量を決めないと、
大変なことになるらしいぞ。
だから、これはこういうものなんだって、
何も考えずに決めておいた方がいい。」
身近な先輩はこう教えてくれた。
それ以来、私はそのことを疑問に思うのをやめた。

「マニュアル破り」をした上の世代の先輩は、
その「マニュアル破り」をした結果どうなったのか、
マニュアルで決められる量よりずっと多い抗ガン剤を、
ガッチリと肥満者に前処置で使った結果どうなったのか、
さらにシブい顔で話してくれた。

「前処置の一週間後にあっという間に死んだよ。
ものスゴい肝不全になった。
前処置が強すぎて肝臓がブっこわれたんだ。」

私は目を丸くした。
身近な先輩が「大変なことになる」といったのは、
実際にやってみた人の失敗があってのことだったのだ。
これ以上ないほどの、豪快な「叩き殺し」である。


血液班チーフのセリフが蘇る。
「昔は移植後7日とか10日でバタバタ死んでいった。」
あれはこういうことだったのか・・・
昔はそんなスタートの時点からつまずいていたのか・・・

だが、一通りBMTの手順が確立した時代の私だから、
あとからこんなことがいえるのだ。
いったい誰が先輩の世代を責められるというのか?
誰も先駆者たちを責めることはできないはずだ。

「マニュアル破り」の先輩は、
その後、学会であちこちの移植施設の偉い人に、
さんざん聞いて回ったらしい。
肥満者の前処置の薬の量について。

すると、日本で最初の頃に骨髄移植を始めた施設では、
同じようなことがあちこちであったらしい。
そう、先輩と同じような「マニュアル破り」が・・・
そしてその結果も同じように・・・

前処置のときの抗ガン剤の量は、
標準体重で計算する、つまり身長だけで決まる。
これは現在では、
だれも疑うことのない鉄則である。

移植マニュアルには、
このような犠牲を踏まえた項目がたくさんある。
というか、そんなことばかりである。


Dさんにステロイド・パルス療法を、
その日曜日からさっそく行うことになった。
マニュアル通りの対応である。

私はこのとき、自分がそのパルス療法のあとに、
確信犯的に「マニュアル破り」に踏み切って、
Dさんを救うことになるとは夢にも思っていなかった。

 

 

 

私はそれまで、グレード3以上の、
重症急性GVHDを診たことがなかった。
グレード2までしか経験がなかった。

そのかわり、チーフやF助教授から、
いろいろと話を聞いていた。

「ある日ビックリするくらい突然に、
全身の皮膚が真っ赤になって、
まるで"カチカチ山"のようになる。」

「真っ赤になったその日にパルスをしないと、
翌日には水疱がボコンボコンとできて、
それが破れてベチャベチャになる。」

「急いで治療を強めないと、
ホントに全身ヤケドみたいになる。」

「パルスをやると皮膚は良くなるんだけど、
下痢・下血はずっと続いて治らない。」

「ステロイド・パルス療法は、
腸のGVHDや肝臓のGVHDには効かない。」

「皮膚が良くなったあと、ダラダラ続く下痢・下血に、
さらにパルスを二回目、三回目とやってもダメ。」

「そのうちビリルビンがガガガッと上がって、
肝臓がメタメタにやられてしまって、
アッという間に黄疸が進んで、
体中が黄色くなって肝不全になる。」

「全身の細い血管がボロボロになって、
あちこち紫斑だらけになってドス黒くなっていって、
全身がむくんでしまって肺も水浸しになる。」

「人工呼吸器を使って、
血漿交換をやって、人工透析もして、
できることを全部やっても、最後は死んでしまう。」


これらのことを経験談として私は聞いていた。

特に気になったのは、
「パルスでも良くならない下痢・下血」であり、
「アッという間に進む黄疸」だった。
黄疸は肝障害によるものだ。

最大のポイントは、
ステロイド・パルス療法で皮膚が良くなったあとに、
ずっと続いたままの下痢・下血をどうするのか?
アッという間に進む黄疸をどう防ぐか?
ということのように思えた。

これまでの伝統的な方針としては、
良くならない腸や肝臓の急性GVHDに対して、
ひたすらパルス療法をくり返したり、
さらに強い免疫抑制を考える、というものだ。

移植界全体の伝統である。
シアトル・マニュアルにそう決められている。


Dさんにパルス療法を行ったあと、
Dさんの全身の皮膚の赤みはスーッと良くなった。
皮膚にはパルスが効いている。

しかし、下痢・下血は良くならない。
むしろ一日2~3リットルに下痢は増えていた。

そのままなくならない。
一週間、二週間と、下痢・下血がそのまま続いた。

その間、シクロスポリンはずっと使っている。
ステロイドはパルスの後は元の通常量に戻している。

私は、さまざまな検査の結果を踏まえて、
じっくりとよく考えた上で、
F助教授に、あることを申し出た。

ステロイドをゆっくりと減らしていきたい、と。

急性GVHDの治療としては、全く正反対の選択だ。
こんな方法は、いままで誰もやったことがない。