職場の人とたまに話をする機会がある。
話の流れで子供の話題になると、うちは兄弟二人とも不登校です、と言う。
特に隠し立てはしていない。
それを聞くとみんな、この先どうするの?とか、このままじゃ将来まずいんじゃない?とか、動き出すのをただ待ってるだけじゃ変わらないんじゃない?と言ったことを言う。
そういう考えもわかる。
自分もかつては同じ考えだった。
そう、かつてはね
でも、今はそうは思っていないので、こういうアドバイスのような意見はまったくもって嬉しくない。
何も知らないくせに、余計なお世話だ、とさえ思ってしまう。
そして、ああ、やっぱり、世間はいまだに不登校を問題だと思っているんだなあ、と、いつも残念に思う。
まあ、無理もないよね。
実際に不登校の当事者になってみないとわからないことは多いよね。
だから、不登校の子供の親の会とかにたまに顔を出す。
同じ立場の人と話しをしていると、職場の人みたいに無神経なことを言われることもない。
将来どうなるかなんて、親でもわからないよ。
子供自身がどうするかを決めるんだから。
いくら大人が、前に一歩踏み出して欲しいと願っていても、結局は本人が変わらない限り、いや、変わろうとしない限り、動き出すことはない。
だからといって、大人は何もできないわけじゃない。
きっかけを作ることはできる。
こういう選択肢もあるよ、とか、こういう場所もあるよ、と、道を示すことはできる。
でも、それを聞いてどうするか、最終的に判断するのは子供自身だからね。
こうしろ、ああしろ、と言っても効果はない。
むしろ、かえって逆効果になることが多い。
宿題をやろうとしている時に、もう宿題はやったの?などと野暮なことを言われると、やる気を失うのと同じ。
だから極力小言は控える。
でもそうやって接しているのを周りから見たら、子供も親も何もしてないように見える。
将来のことを放っておいて、ただ現実逃避しているだけのように映る。
このまま一生同じ状況が続くのではないかと思われても仕方がないかも知れない。
身体は大きくなっていくから成長していることはわかる。
外側はね。
でも心の中は外からは見えないから、心が成長していることはわかりにくい。
だから例え不登校の専門家だって、この子は来年の4月になったら学校に行き始めますよ、なんて具体的なことは言えない。
エスパーじゃないんだから。
あくまでも、本人の様子から、家で安心して過ごせていそうかどうか、といったことがわかるだけ。
動き出す時期までは誰にもわからない。
ただ、普段の様子をよく見ていれば、なんとなく変化してきたな、ぐらいはわかる。
でも、そのわずかな変化は周囲には伝わらない。
だから、周りには何も変わってないと映っちゃうんだよね。
職場の人も、例えば、子供がフリースクールに通い出しました!とか言えば、それはよかったね!と言うけれど、毎日家でゲーム三昧です、と言えば、苦笑いするしかない。
要は目に見える変化しか変化と思わないんだよね。
難しいよね。
見守るって。
時々、心が折れそうになるよね。
だから、そういう時は、上で言ったように、親の会に参加したりして、同じ立場の仲間と話す。
話が通じる人と話せば心が軽くなる。
なにせ、不登校は長期戦。
そう簡単には世間が良いと認めるような状態にはならない。
でも、せめて親だけはいつも子供の味方でいたい。
子供のことを信じてあげたい。
家が子供にとっての安全基地でありたい。
そしてとにかく毎日を元気に過ごしてくれればそれでいい。
勉強の遅れは後からでも取り戻せる。
それは世間的にはあまり認知されていないんだけれど。
一度ドロップアウトしたら、這い上がれない。そう考えている人が多いように思える。
実際はそんなことはないんだけどね。
色々な事例を見聞きすれば。
今は何もしていないように見えるけれど、きっといつか一歩を踏み出す時が来る。
それはいつ?と問われれば、時が来たら、とか、機が熟したら、としか言えないけどね。
それでも、なんとかなるなる。
だって我が子なんだから!
そう思えるようになれば、不登校?別に良くない?元気で過ごせているんだから。
と、胸を張って過ごせるようになる。
そうなれば、あとは大人も自分の好きなことを見つけて、人生を楽しめばいい。
ケセラセラ、ケセラセラ。
肩の力を抜いて行きまっしょい