今年は南東の九紫火星を仮吉方で取ることにしている。
まだ実際に動くのは先なのに、
行くと決めた頃から、自分の中にあるものを静かに見せられるような出来事が続いている。
そのひとつが茶道教室のことだ。
離れたいと思っていたわけではない。
長く通った場所には、ただお稽古に通うだけではない時間の積み重ねがある。
季節ごとに掛け替えられる軸。
湯の沸く音。
いつものお道具。
変わらない所作。
先生が当たり前のように整えてくださっていた空間に、私はようやく気づき始めたばかりだった。
できればそのまま続けたいと思っていたし、続けることの意味がわかりかけたばかりだった。
その静かな時間に、何度も気持ちを整えてもらっていたのだと思う。
だからこそ、離れるということは簡単なことではなかった。
相手に敬意がなくなったわけではない。
ただ、自分の気持ちだけはごまかせなくなった。
見ないふりをして続けることもできたのかもしれない。
けれど、
そうして続けるたびに、自分の中にある違和感だけが静かに残っていった。
九紫火星には「離」という象意がある。
離れるというのは、ただ距離ができることではなく、
曖昧にしていたものがはっきり見えてしまうことなのかもしれない。
離れたかったわけではない。
ただ、見えてしまった。
そして、見えてしまった以上、前と同じようにはいられなくなった。
行く前からもう始まっている。
仮吉方には、そんなことがある。