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やがて、ひろしも、椅子の上で眠ってしまった。
私はそっと山猿に近づき、彼を抱き上げた。山猿もさすがに疲れきっていた。私が抱き上げても、夢から覚めなかった。ひろしを看護人用の特設ベッドに寝かせて、布団をかけてやった。
電気を消し、私は病室を出て、狭い病院の中を歩いた。
ナース・ステーションらしい部屋にも人影はなかった。入院患者は何人かいるはずなのに、のんびりした病院だった。
病室に戻り、私もソファに横たわった。暗い部屋の中に、スチームの音だけが流れていた。
それから、私も眠りに落ちた。
何時間か眠ったはずだ。夢は見なかった。疲労しきっていたからだろう。
眠りの真っ暗な沼の中で、死人になったような私が、その声を耳にしたのは、もう明け方に近かった。
私は、最初は夢かと思った。
夢の中で、セツ子が語りかけているのかと思った。しかし、目を開けてみると、それは現実の病室の中で、本当にわずかながら、朝の光がさしこみ始めていた。
私は天井を見上げて薄目を開けながら、その声をきいた。女性の、小さな声だった。
「…ああ、よかった。ご無事だったのね…」
しばらく間があって、男のしわがれた声がした。
「あなたこそ。よかった」
「こうして会えたのが、本当に、奇跡のようですわ。でも本当に、すれ違いの人生だったのね」
「今は、もう、40年以上も前ですよ…。ほら、見えるでしょう。今、マーガレット・サラヴァン主演の、映画「お人好しの仙女」が、終わったところです。
僕は、なぜかこの映画を見て、役所をやめて、何か、これまでの人生とは違うことをしようと誓った」
「私も、観ています。40年以上前の、12月24日です。私もひとりぼっちで、その映画を観ています。私は、とても悲しいんですよ」
「声をかけてあげたい」
「無理ですわ。あなたは、新しい人生への誓いをたてていたところでしょう?それどころじゃないでしょう?」
「帰りのバスも、同じだっただなんて」
「不思議ですね」
「覚えていますよ。マスクと黒眼鏡の、女性が乗ってましたよ」
「そうね。あたしは、そんな格好だった」
ひそひそ声で、男と女の会話が続いていた。
夢ではない。
私は上体を起こした。
ひろしは、特設ベッドで眠っているし、美香も眠っていた。もちろん、セツ子も、白髪の老人も、静かに眠っている。
・・・・・つづく
