製氷室のマリア64 私はその声をきいた | 新庄知慧のブログ

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私のいろんな作文です。原則として3~4日に一度投稿します。作文のほか、演劇やキリスト教の記事を載せます。みなさまよろしくお願いします。

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やがて、ひろしも、椅子の上で眠ってしまった。

 

私はそっと山猿に近づき、彼を抱き上げた。山猿もさすがに疲れきっていた。私が抱き上げても、夢から覚めなかった。ひろしを看護人用の特設ベッドに寝かせて、布団をかけてやった。

 

電気を消し、私は病室を出て、狭い病院の中を歩いた。

 

ナース・ステーションらしい部屋にも人影はなかった。入院患者は何人かいるはずなのに、のんびりした病院だった。

 

病室に戻り、私もソファに横たわった。暗い部屋の中に、スチームの音だけが流れていた。

 

それから、私も眠りに落ちた。

 

何時間か眠ったはずだ。夢は見なかった。疲労しきっていたからだろう。

 

眠りの真っ暗な沼の中で、死人になったような私が、その声を耳にしたのは、もう明け方に近かった。

 

私は、最初は夢かと思った。

 

夢の中で、セツ子が語りかけているのかと思った。しかし、目を開けてみると、それは現実の病室の中で、本当にわずかながら、朝の光がさしこみ始めていた。

 

私は天井を見上げて薄目を開けながら、その声をきいた。女性の、小さな声だった。

 

「…ああ、よかった。ご無事だったのね…」

 

しばらく間があって、男のしわがれた声がした。

 

「あなたこそ。よかった」

 

「こうして会えたのが、本当に、奇跡のようですわ。でも本当に、すれ違いの人生だったのね」

 

「今は、もう、40年以上も前ですよ…。ほら、見えるでしょう。今、マーガレット・サラヴァン主演の、映画「お人好しの仙女」が、終わったところです。

 

僕は、なぜかこの映画を見て、役所をやめて、何か、これまでの人生とは違うことをしようと誓った」

 

「私も、観ています。40年以上前の、12月24日です。私もひとりぼっちで、その映画を観ています。私は、とても悲しいんですよ」

 

「声をかけてあげたい」

 

「無理ですわ。あなたは、新しい人生への誓いをたてていたところでしょう?それどころじゃないでしょう?」

 

「帰りのバスも、同じだっただなんて」

 

「不思議ですね」

 

「覚えていますよ。マスクと黒眼鏡の、女性が乗ってましたよ」

 

「そうね。あたしは、そんな格好だった」

 

ひそひそ声で、男と女の会話が続いていた。

 

夢ではない。

 

私は上体を起こした。

 

ひろしは、特設ベッドで眠っているし、美香も眠っていた。もちろん、セツ子も、白髪の老人も、静かに眠っている。

 

 

・・・・・つづく