ある日、子猫が職場の駐車場に捨てられたのか、泣いていた。


私はひとりぼっちになってしまったのか、悲しそうな表情に見えて、気になった。


ところが、職場のスタッフは、「そのうちどこかに行くのではないですか?」と一言。


私はなんてひどい考え方、と憤った。


前者は優しくて、後者は冷たいように思える。


が、本当にそうだろうか?



松田サリー先生は毎日のマヤ暦のメッセージを教えてくださっている。


どのような性質にも短所ではない、ということを。


そこで、後者の一見ドライに思える、子猫を放っておいてもいいのではないか、という意見は、根底には猫は元々自立している動物だからしっかり生きていけると信じているか、そのうち世話する人が現れるか、傲慢に自分が世話しなくてもその子猫が必要なことを引き寄せる、と信じているのかもしれない。


心配をしている私は、どちらにしろ飼うことはできない、と決めているのだから、心配すること事態がその子猫にははた迷惑な引き寄せを起こすかもしれない。


その時だけ、かわいそうだからと食べ物をあげたところで、責任を持てるわけでもない。



一体どちらが優しいと言えるだろうか?


捨てられたかもしれない子猫をそのままにしておいて罪悪感を感じることは、地球を地獄のようにしてしまうということも教わった。


だとしたら、子猫を、自分がどうにかしてあげなくても大丈夫、と考えるのがいいのではないか、と思える。


いったいこういう感情はどこからくるのか?


動物に対して抱く感情は、7歳までに作る創痍(心の小さな傷)が関係している。


親や他の大人による影響で作った記憶のことだ。


その傷(記憶)がなかったら、

かわいそう、とは思わないのではないか?

と考える。


いかに創痍の影響で物事を考えているかを改めて感じた。


子猫にとっても、この子は大丈夫、と思うほうが幸せだろうに。




松田サリー先生が作られたBPMは、色々なことを気づかせてくれる。