「友佳とは高校生の頃にも一度恋仲だったことがあったんだ」
伊原さんは窓の向こうを眺めたまま話を始めた。
伊原さんの顔からは苛立ちの表情は消えていて、まるで憑きものが落ちたようにすっきりとしていた。
ぼくも玲さんも、そしてさっきまで普段の何倍もの言葉を紡いだ柚原くんも、伊原さんの次の言葉を静かに待つ。
そしていつしか伊原さんの表情は、何か懐かしむような印象に変わっていた。
「ぼくの方から告白した。
その頃から友佳は明朗活発で、色眼鏡をもたずどんな人とも仲良しな人だった。
友佳のそんな部分、ぼくは持っていなくて、ときには羨ましさのあまり嫉妬に近い感情を抱いたこともあったかな。
でも大好きだったし、とても尊敬していた。
高校三年生のとき、お互い別々の県に大学進学することになって、それをきっかけにお別れすることにした。
まだ若いんだし、ぼくも友佳もお互い縛り付けるのは良くない。
友佳のこと大好きだったけど、ぼく自身色々な人と出会ったり付き合ったりしたかったし、それは悪いことではない。
少なくともぼくはそう思った。
大学生の頃にできた恋人とはそれなりに長く付き合った。
だからこそ、お互い無事に就職先が決まっていよいよ卒業というとき、結婚の話がでた。
彼女のことは好きだったし一緒にいて楽しかったけど、どうしてだろう、結婚する気にはなれなかった。
結婚という言葉が出たとき、ぼくが真っ先に思い浮かべたのは、それまですっかりと忘れていたはずの友佳の笑顔だった。
社会人になって間もなくして、よく考えてその彼女とはお別れした。
友佳と再会したのはその後だ。
これが『縁』ってものなのか。
そう思ったよ」
「そんな深い縁で結ばれていた友佳さんを手にかけてしまった。
皮肉な『運命』ですね」
辛辣な言葉を浴びせる。
「何もいえない」
伊原さんは何かを堪えるように唇を噛みしめる。
「ぼくたちはこれでお暇します」
そういうと柚原くんは立ち上がり、伊原さんに一礼する。
玲さんも柚原くんの後に倣う。
ぼくも慌てて立ち上がる。
「動機は、訊かないのかい?」
伊原さんは驚いたように呟く。
真っ先に口を開いたのは玲さんだった。
「人が人を殺める理由なんて、知りたくありません」
玲さんの声は微かに震えていた。
一瞬、玲さんの方を振り向きそうになったが、ぼくが玲さんの顔を見ることはなかった。
顔を見なくても、目に涙を溜め必死に堪えていることが判ったからだ。
玲さんの涙を、ぼくは見たくはなかった。
「なるほど。
そらあそうだよな」
伊原さんは俯き、震える自らの両手を必死に握りしめた。
「葛城さん」
「はい」
「きみがケンカをするときはどんなとき?」
玲さんは真っ直ぐ伊原さんを見つめたまま、しばらく答えずにいた。
ゆっくりと考えをまとめ、言葉を選んでいるようだった。
「自分に余裕がないとき、です」
玲さんがそう答えると、前のめりに構えていた伊原さんは、全身を背もたれに預けた。
「そういうことかもしれないな」
どういうことなのか、少なくともぼくにはわからない。
「友佳は、どことなく、きみと雰囲気がよく似ていた」
伊原さんが友佳さんを殺してしまった理由。
ほんの些細なケンカが原因だったのかもしれない。
ほんの少しお互い余裕がなくなって、思ってもないことをいってしまい、傷付け、傷付けられ。
そんなとき相手が背中を向け、手が届くところに煉瓦があって、それを手に腕を振ると相手の頭に直撃し、打ち所が悪く、そして息をしなくなった。
まさか。
本当にそんな偶然あるなんて思っていない。
人が人を殺める理由なんて、玲さん同様、ぼくにも理解できそうもなかった。
伊原邸を出るときからどうしても気になっていることがあった。
すっかり日は傾きほとんど闇に包まれた駅のホームでぼくたちはようやく口を開くことができた。
「伊原さん、大丈夫だよな」
ドラマや小説では自分の犯した犯罪が暴かれことで、罪から逃れるために自ら命を絶つ描写がよくある。
ぼくは伊原さんの身を案じた。
「彼は死ねない」
「どうして?」
「古椿が、友佳さんがそうさせない」
そんなものなのか。
ぼくにはよくわからないけど、柚原くんがいうのなら、きっとそうなのだろう。
「千昭くん、本当に視えるの?」
「何がです?」
「幽霊」
「…それが幽霊なのか妖なのか、ぼくにはわかりません。
一体、誰が判断してくれるんでしょう。
ぼくは、ぼくに備わったこの能力を、他の人よりも異常に観察力や洞察力が長けている、それだけのことだと思うようにしています」
「じゃあ、わたしもにも、視えるようになるかな」
またとんでもないことをいい出した、と思った。
「どうしてです?
いいもんじゃありませんよ」
「そんなことないわよ。
そりゃあよくないこともあるかもしれないけどね」
玲さんの性格からして…。
彼女が何を考えているのか解ったような気がした。
まだ五月、ぼくたちは出会ってまだ一か月足らずだ。
――千昭くんはその力をつかって、人を一人救ったのよ。