「伊原さんは、『失踪した』といいましたよ」
柚原くんは作業の手を休めていた。
黙ってぼくたちの話を聞いていたようだ。
ちょうど強い風が吹いて、柚原くんの赤みがかった髪が彼の表情を隠した。
その向こうでは、木から落ちたばかりの椿の花が風に身を任せてふらふらと転がっている。
「そうだっけ?」玲さんがいう。
「そうですよ」柚原くんは語気を強める。
思い返してみると、確かに伊原さんは『失踪』といっていたような気がする。
「あら、千昭くん、やけにつっかかってくんじゃない」
「そんなことないですよ」
「そう?」玲さんは納得していない。
「まあ、千昭くんのいう通りだとしてさ、そうだとしても『出て行った』も『失踪した』も同じだと思うけど」
「あるいは、そうかもしれません」
「かも?」
「その二つは微妙にニュアンスが異なると思いますよ」
「例えば?」
「例えばというより、事件性があるかないか、ということですよ」
ぼくはただ二人のやり取りを聞いているだけ。
はじめは一触即発の二人の掛け合いに緊張したが、柚原くんの口から『事件性』という言葉が出てきて、雰囲気は一変した。
玲さんが黙っていると、柚原くんが再び口を開く。
「『出って行った』なら家出かもしれないし、広義で離婚のことかもしれない。
でも『失踪』となると、なんとなく、何らかの事件に巻き込まれたこと指しているように思えませんか?
もちろん、前触れもなく突然家出されたことを、そういっただけかもしれませんが」
「うん」と、玲さんは素直に頷く。
「でもね、今思い出したんだけど、伊原さんは奥さんが『いつ戻ってきてもいいように』っていって私たちに花壇の手入れお願いしたんだよ」
「確かにそういっていましたね」
「だから私は…」
「でも、どうして伊原さんはあえて『失踪』と言ったんでしょう」
「どうしてって…」
「戻ってこないとわかっていたから?」ぼくは余計なことをいった。
玲さんが振り返った。
どうせ声がろくに出ないのだ。
黙っていればよかった。
ぼくはそう反省していたが、玲さんの表情を見て、それは後悔だとわかった。
「伊原さんの奥さんは、戻ってきません」柚原くんが突き放すようにいう。
「どうして判るのよ」
「答えられません」
「どうして?」
「伊原さんの奥さんは、もうここには戻ってこない。
それを論理的に説明しないと、葛城さん含め多くの人が納得してくれません」
「当然よ」
「当然ですよね。
だから答えられません」
柚原くんは再び手を動かし始めた。
玲さんは黙ったままだ。
表情は確認できない。
でもきっとひどく怒っている。
ぼくは怒っている玲さんを今日初めて見た。
初めて見たのだけれど、玲さんのような人は、本当に怒っているときこそ大きな声で怒鳴ったり喚いたりしない。
そんな不思議な確信があった。
玲さんはやはり柚原くんのことを見つめたままで、動かない。
玲さんはぼくにその綺麗な黒髪を見せびらかしたいのだ。