「あっ」と、玲さんは思い出したように手元を見つめた。
「この花活けておくね」そういってから胸に抱いていた白い花をぼくに差し出す。
強い匂いがすうっと鼻の奥を刺激した。
「これ、百合ですよね?」とかすれ声でぼくはいう。
「そうよ。何?」
ぼくは知らぬ存ぜぬといった感じで腰を下ろす柚原くんに視線を送った。
「葛城さん、病気見舞いに百合はタブーですよ」
柚原くんが落ち着いたトーンで代弁してくれた。
やっぱり知っていた。
知っていたのならなぜ事前に止めなかったのかは、とりあえず置いておく。
「え、そうなの?」
「香りのきつい百合は病院では嫌われます」
柚原くんのいう通りだが、他にも理由はある。
百合の花粉は、白いシーツに付くといくら洗ってもなかなか取れないのである。
でも、今一番の問題はその強い香りだ。
ぼくの病室は個室ではない。
「千昭くん、もっと早くいってよね」
玲さんは花瓶に活けた(実際にはとりあえず突っ込んだだけだが)白い百合を腕を組んで眺めている。
「じゃあどうしよ、これ」
「構わないよ」
白いカーテン越しに伊原さんがいう。
「せっかく用意したのに勿体ないもんな」本を閉じる音がして伊原さんがカーテンの隅から顔を覗かせる。
「うん、いい香りだ」
病室にはベッドが六つあるが、現在使われているのは二つのみである。
一つがぼくのベッドで、もう一つは伊原さんのベッドだ。
「初めまして、伊原です」伊原さんは二人に微笑みかける。
「潮見くんが入院してくるまでしばらくこの広い部屋に一人ぼっちだったんだ。
ってことで賑やかなのは大歓迎だね」
伊原さんは三十代前半くらいの男性である。
去年の夏に登山で靭帯を損傷したらしい。
膝が抜けるような痛みで、すぐに病院で治療をしてもらった。
見てくれた町医者は、処置はしてくれたものの診断結果についてはあやふや。
大きな病院での手術を勧められたが、この手の手術は術後数週間の入院が必要という。
まとまった時間も取れず、ずるずるとその病院に通った。
しばらくすると痛みもなくなり動きも安定してきた。
簡単な運動もできるまでに回復した。
しかし、時折何気ない動作でも膝に違和感があった。
仕事中はパソコンに向かっていることが多いため対して影響はないが、趣味の登山はどうだろうか。
それがずっと気がかりだったが、怪我をしてから約半年後、ようやくまとまった休みが取れた。
現在は手術も無事に終わり、リハビリに入っている。
「わたし、葛城玲です。
シュウくんの天文部の先輩です」
「違いま…」
否定したいが無念、声が出ない。
「この子は柚原千昭くんです。
シュウくんの同級生で天文部の後輩でもあります」
「違います」
もちろん、柚原くんも天文部ではない。
「元気な子だねえ。
見ていて清々しい。
それにしても天文部とは、奇遇だね。
ぼくの趣味は天体観測だよ。
でもね、その趣味のための夜の登山でこのざまさ」
広い病室に一人で話し相手がおらず、二日前に現れた唯一の話し相手は声が出ない。
これまでのうっぷんを晴らすように伊原さんはよくしゃべる。
伊原さんはしばらく玲さんと世間話して満足したようで、笑顔のままカーテンの奥に消えた。
玲さんはようやく椅子に腰を下ろすと、肩にかけていた鞄を膝の上で抱える。
「今年の文化系部活の一番人気は軽音部。
男子も女子も目当ては芽衣ね」
と、間髪入れずぼくたちに向けた話を始める。
その切り替えの早さに驚く間もなく玲さんの話は進む。
「芽衣」というのは、玲さんの小学生の頃からの親友らしい。
玲さんの言葉を借りると、芽衣さんは超絶美少女。
近年は女性シンガーソングライターブームもあって軽音部への入部数は徐々に増え続けていた。
しかし今年は芽衣さんの美貌とその実力も加わって、入部希望者は倍以上になるそうだ。
「でも不思議だよね。
どうして天文部は部員が増えないんだろ?」
それは確かに不思議である。
自然が多く空気が綺麗なこの地域の夜空は美しく、天体観測にはもってこいだ。
「芽衣まではいかないけど、私ほどの美少女がいるのに。
ね」
それはまた別の話である。