距離にして数メートル。
ギターを振りかぶった柚原が雲外鏡に向かって猛進する。
軽快なステップで雲外鏡の目の前に到達した柚原は、そのまま右足を軸にして、バッティングスイングの要領で背面から前方にギターを繰り出す。
左足が床に付いたときには腕はしっかりと伸び、ギターは雲外鏡の目前に迫っていた。
一部始終はまるでスローモーションのように、ぼくの瞳の中でコマ送りされていた。
「やめろっ」
柚原の美しいスイングに見惚れていたぼくは、その叫び声で我に返る。
柚原は動きをぴたりと止めた。
ほんの数センチ。
ギターは雲外鏡の手前で静止した。
五月がソファから腰を上げていた。
眼は血走り、顔にはぎっとりと汗が流れている。
口をぱくぱくとさせ、何か言いたそうだ。
ぼくたちは彼の言葉を待った。
「そのギターだけは駄目だ」
「でしょうね」
「どうして――」
柚原がギターを床に下すのを見て安心したのか五月もソファに腰を下ろした。
「力技で押し切ったこと、謝ります。
苗床は確かにこの雲外鏡です。
ですが、根っこの部分はあなた自身の中にあるんです。
この問題はあなた自身が吹っ切る以外に解決は見込めません。
このギターはあなたの大切な人からの贈り物。
あの事故で亡くなった、あなたの隣に座っていた女性からの」
「きみは…まさか、そうか、視えるのか」
「彼女は復讐なんか望んじゃいませんよ」
「わかっているさ。
そう、彼女はぼくを恨んでいるんだ。
ぼくの運転する車で、僕の不注意で彼女は死んだ。
怪我はぼくの方が酷かった。
彼女の方はほとんど傷もなく綺麗なもんだったらしい。
でも打ち所が悪かったんだ」
「あなたは色々と勘違いをしているようです。
思い込みは仕方ありません。
死んだ者は語ることはできませんから。
夢や大切なものが奪われた理不尽な思いも良く分かります」
「…」
「でもね、八重子さんはあなたに復讐なんて望んでないし、恨んでもいないんですよ」
「…」
「『Truth』。
ギターのメーカー名にちなんでもう一つ真実を伝えておきます。
あなたは一か月かけて女性たちを心底信頼させ、心を奪った。
そして抱き寄せ、幸せの絶頂の彼女たちの背中を刺し二人を殺害した。
生の幸せから死の絶望へ突き落して殺害する最低な方法。
になるはずだった。
彼女たちはあなたに抱かれて死ねて幸せだった。
あなたに殺害された女性二人、未練なくこの世を去ったようですよ」
「まさか」
「きっと犀川芽衣も同じでしょう。
もしも彼女が無事目を覚ましたとしてもあなたとのことは一切誰にも話をしないでしょうね。
それだけあなたには魅力があったんだ。
顔に傷を負い腕が不自由でも。
イヤホンをはめ音楽を聴きながら歩く。
確かに注意散漫になり危険な行為だ。
実際にあなたはそれが原因で間接的に被害に遭われている。
でもやっぱりあなたは違う。
いかなる理由があろうとも、許されることではありません。
あなたは二人の女性を殺害し、さらには一人の少女は今も生死を彷徨っている、そのことは」
柚原は机の上に置かれた白のノートパソコンに手を置いた。
「終わりにしましょう。
今は楽器が弾けないかもしれない。
でもあなたはこうして新しいかたちで音を表現しているのでしょう。
八重子さんもそれを望んでいる。
音楽に関して、あなたのやってきたことは正しかったのに。
迷わず突き進めばよかったのに。
それに、腕が不自由だからといって楽器が弾けない訳でもないのでしょう。
当然時間はかかりますが、元々才能がある方だ。
努力次第です。
今あなたは改めて、ギターが、音楽が、自分にとってどれだけ大切か、今再確認したはずです」
「高校生に正論を言われ、気付かされるとは情けないな。
きみ、柚原くん。
きみのそのチカラ、これまで色々と苦しんだだろう」
「現状を受け入れ、自分を信じるしかありません。
ぼくはどうしてこのチカラを授かったんだろう、と。
きっとそれには理由があるんです」
「若い内からそこまで物分りがいいと、今後も別のところで苦労するだろうな」
「今日のことは誰にも話しません。
後はあなたの良心にお任せします」
そう言って柚原はギターを元あった場所に戻し、足早に部屋を出る。
ぼくと葛城もその後を慌てて追う。
振り返ると五月はソファに座ったまま、すっかり温くなったフレーバーコーヒーを啜っていた。