梟塚妖奇譚 ・ 雲外鏡 【拾六】 | ぼくはきっと魔法を使う

ぼくはきっと魔法を使う

半分創作、半分事実。
幼い頃の想い出を基に、簡単な物語を書きます。
ちょっと不思議な、
ありそうで、なさそうな、そんな。


男の人の家に入るのは、どのくらい振りだろう。


芽衣は五月のあとからドアの内に入った。

ドアを閉め、沓脱から長い廊下を抜けて通されたのは広いリビングだった。

床にはベージュの絨毯が敷いてあり、部屋の真ん中にはガラスのテーブルとそれを囲むようにソファが置かれている。

部屋の左手に視線を移した。

グランドピアノと五本のギターが並べられている。


「そこに座って待ってて」


そう言って五月は左のドアの向こうに消えていった。

ドアは少し開かれたままだ。


芽衣は鞄をソファに置き、もう一度よく部屋を見渡した。

黒のグランドピアノには歪んだ自分の姿が映っていた。

ギターはギブソン、マーティン、フェンダー、グレッチが並ぶ。

どれもギター経験の浅い芽衣でも知っている有名ブランドだが、五本の内一本だけ、知らないアコースティックギターが立て掛けられていた。

ヘッドには「
Truth」と描かれている。

五月の話だとしばらく楽器は使っていないとのことだったが、どの楽器も綺麗に手入れがされているようだった。


振り返るとテーブルとソファの向こうには簡素な木製の机と椅子が一組置いてある。

いかにも手作りといった感じの古い机と椅子。

傷だらけで虫食いらしき跡もある。

それゆえ、机の上のノートパソコンがより異彩を放っていた。


もう一つ、この部屋で異様な存在感を放っていたのが、鏡だった。

壁に掛けられているのはおとぎ話に出てくるような妖しげに縁どられた鏡でも、ましてや銅鏡というわけではない。

よく観察せずともそれは、洗面所にあるような一般的な鏡だ。

芽衣は鏡の前に立ってみた。

鏡には正常な自分の姿が映った。

こちらの芽衣が両手で髪を撫でると、鏡の芽衣も同じように髪を撫でた。

特に異常はなさそうで、どこにでもある普通の鏡ようだった。

鏡を正面に目線を右にやると壁になっているが、ちょうど芽衣の目線の高さの壁紙だけ酷く擦り減っていた。

壁紙の擦り減った部分を右手で触れようとしたとき、ドアが開いた。

とっさに鏡を見ると、鏡の芽衣の向こうには五月が立っていた。

右手にカップののったお盆を持っている。

それを見て五月の左手は不自由だったことを思い出した。

さっきドアを全部閉めていかなかったのは、お盆を持つとドアノブを操作できなくなるからだと、芽衣は理解した。

慌てて駆け寄ると五月は「大丈夫だよ」と優しい口調で言った。

お盆を器用にガラスのテーブルに置くと、再び芽衣にソファに座るよう勧めた。


勧められるがままにカップの飲み物を飲んだ。

これが不思議な飲み物で、香りはチョコレートなのに飲んでみるとコーヒーなのだ。

芽衣が不思議ですねと感想を言うと、五月はフレーバーコーヒーって言うんだよと答えた。

ついでにギターについて訊いてみた。


Truthは知らないかもね。
 手作業でほとんど作られているギターなんだよ」


五月はギターを取りに立ち上がり、芽衣に弾いてみるかいと訊ねた。

頷いた芽衣はギターを渡され、小脇に抱えて五つの弦を軽く上から下へと撫でてみた。

弦の振動は音となり、ボディ内で何度も渦巻くのがサイドとバックを通じて芽衣の体に伝わった。

ボディ内で十分に増幅された優しくも重厚な音色は、サウンドホールから放出され部屋中に響いた。


芽衣がギターを買ったのは、高校合格が決まった次の日だった。

高校に入ったらギターを始めようと、もうずっと前から考えていた。

ギターに関する知識は何もなかった。

とにかく弾ければ何でもいいと思い、リサイクルショップで一万円のアコースティックギターを買った。

家に帰っていざ弾いてみると、いよいよ解らない。

どうやらチューニングが合っていないようだが、五本の弦をどう調整したらいいのかも解らない。

これは教則本も一緒に買ってくるべきだったと後悔した。

とりあえず今日はおいておこうと思ったその翌日から、高熱で数日間寝込んだ。

中学三年間は皆勤賞だったのに、ここぞといわんばかりに強制的に休養することとなった。

結局ちゃんとギターを弾いたのは、ギターを買ってから一週間経ったある春の日のことだった。


五月のギターを爪弾きながら、初めてギターを買ったときのことを思い出していると、次第にこのギターに愛着が湧いてきた。

もうちょっと弾いていたかったが、あまり長々と弾いているのも申し訳なかったので、満足しましたと言って、自ら元あった場所に立て掛けにいった。


「普段はどうやって曲作りしているんですか?」


失礼かとも思ったが、思い切って訊いてみた。五月は立てた親指で後ろを指した。


「今はパソコンで音が作れるんだ」


芽衣は頷きながら元いた場所に座った。


「でも、やっぱりぼくは楽器を使って曲を作りたいな」

「腕、そんなに悪いんですか?」

「そうだね。
 左手で弦を押え付けられないくらい握力がないんだ」


五月は左腕を上げ、指をかくかくと動かしてみせた。

そのぎこちない動きに芽衣は心が痛んだ。

思わず、自分の両手でその左手を包み込んだ。

可哀そう――と言いそうになったが、我慢した。

言ったとしても、ただの偽善にしか聞こえないだろう。


五月と目が合った。

彼の顔には左の頬には顎下にかけて大きな傷がある。

芽衣はその傷を右手で優しくなぞった。


自分の右手と共に五月の顔がゆっくりと近づいてきた。


芽衣はそっと目を閉じた。



梟印1