久しぶりに書道の先生にお会いした。
先生はワタシが子供の頃に近所で教室を開いており、中1までお世話になっていた。信じがたいことに初段まで進んだのである。
当時、イタズラ好きのクソガキでしかなかったワタシが、一体どうして書道を始めたのか未だに不思議なのだが、どうも子に集中というものを教えようという母親の策謀のように思える。
書道を子供の頃に経験した事が、ワタシの精神の中に何やら大きな根をおろしている事は自覚しているので、親にも先生にも感謝している。
先生の教室では大人と子供の区別は無かった。小学生が通う時間帯のことだから、主に中高生や主婦の方が多かったように思う。いずれにしても、小学生から見ればみんな大人だ。
教室に入ると、子供でも感じるくらいに厳粛とでも形容される空気があった。一心に集中する環境があって、ワタシはそれが好きだった。
ただ、筆を取り、ただ、筆を運ぶ。
・・・という境地に至るには少々時間がかかった。
筆は右手で持って運ぶように出来ている。穂先やら運びやら何やらを考えても左手で使うには少々無理がある。
ワタシは純度100%の左利きだったので、左手で書こうともしたが、それは無理だとすぐに気づいたので、仕方なしに右手で書くことにした。
面白いことに、筆というのは右利きじゃなくても普通に動かせる。だからすぐに慣れた。
なんて、書道の云々を語るつもりで書き始めたのではない。語れる程の蓄積があるわけでもない。
以下はワタシの勝手な想像妄想成分が主なので注意されたし。
先生にお会いして書道というものを思い起こした時に、左利きが歴史的にどういう存在であったのか気になったのだ。
鉛筆が日本に入ってきたのは江戸時代の事だった。最初期には徳川家康が使ったそうだが、一般には江戸後期の事だった。確か幕臣だった頃の福地源一郎か福沢諭吉かが鉛筆を使っていた記録があったような無かったような。
つまり、江戸後期に至るまで一般庶民の筆記具と言えば筆だった。そして筆は左利きには扱いにくい。
ここで考えたのは、日本に左利きの人間が表立って現れたのは何時の事なのか?ということだ。
うんと時代を遡って、庶民が文字を書く必要も習慣も無い縄文時代とかなら、右利き・左利きを云々する必要が無かったはずなので、両者共に表立って存在していたように思える。
公家や武家の子弟が教育を受ける事が常態化したのは平安時代くらいからだそうで、そのころから左利きは衰滅を始めたのではないかと勝手に想像している。
弘法も筆の誤りという言葉があるくらいなので、平安初期の頃には筆記具として筆が普通に使用されていたと思える。というか他に道具があったのかは知らん。
公家や武家の人間が筆で文字を書く際に左利きではどうにもならんので、この時代に右利きに修正される事が増えたのかもしれない。
この平安初期に、公家のように裕福な人間は、そのほとんどが右利きになったのではないか。同時に右利きの人間=育ちが良い、という観念の元にもなり、翻って一部の人間に左利き=育ちが悪いという現代にまで残っている観念に変体していったのではないか。
時代が進んで室町時代になると、今度は地侍と呼ばれる土地持ち農民なのか武士なのかよく分からない存在が力を付けてきた。彼らもまた教育を受けるようになったことで、日本の知識層が拡大したのではなかろうか。
そして江戸時代になって寺子屋の全国的な普及によって、武家から魚屋、薬屋の子弟まで軒並み教育を受けるようになったことで、識字率が世界的にも高いことになった。まぁ、実際は帳簿を付けるなどの技能的な事が主であって、文学的な何かが遍く普及したわけではないようだが。
ともかくも、筆を用いて文字を書く事と教育の浸透の合わせ技でもって、先天的に左利きだった人であっても、それと気づく前に右利きに修正されたように思う。
そういう次第で、江戸時代に左利きはほぼ消滅したのではないか?などと想像している。
ところが新たな筆記具として鉛筆が普及することになった。おそらく明治維新や開国と無関係ではあるまい。
鉛筆は利き腕を選ばない。左利きは英語ノートで真っ黒というが、それを言うなら右利きだって国語の縦書きで真っ黒なので平等だ。
ここで左利きはそれなりの復権を遂げても良かったはずだが、平安期から連綿と続いてきた右利き=育ちが良いという観念が邪魔をしたのか、昭和に至っても左利きは異端のままだった。
そういう観念の搾りカスが残ってるかどうかという頃に、ワタシは右手で太筆を使い文字を書いていた。現在から振り返っても、そのことに何か不思議なモノを感じるけど、何がどう不思議なのかはよく分からない。
まぁ、これは全部ワタシの勝手な想像だ。