こりゃ難しい。考えるほどに難しい。
意見を戦わせてる姿を横目で眺めながら、ぼけーっと考えてみた。
「牛豚鳥は食べて良くて鯨は駄目?」
よく見られる捕鯨賛成側からの反論ですが、この反論とクジラを殺すなと主張する国々との噛み合わなさが寂しい。
欧米を中心にした反捕鯨国の多くはキリスト教圏なので、その教義によって家畜は食っていいけど鯨はダメってことになってる。聖書に基づいてそうなってる。
より正確には、キリスト教的規範の上に動物愛護思想がフィットしたもので、現代に至って両者は分離不可能なほどに融合した。
動物愛護やニューエイジ思想は捕鯨より遥かに後代の新興思想であるから、土台にキリスト教が無ければここまで強力に繋がることもなかったはず。やはり反捕鯨思想の根っこには宗教の存在を見てとるべきと思う。
昔は捕鯨していたことを思えば、ご都合主義的なモノを感じもするけど、現代に生きる彼らには直接の責任は無いし、何よりワタシのような人間でも、宗教上の教義は意外と人の思考を律するものだというくらいは知っている。
この辺りの感覚は教えを奉ずる感覚に慣れてない日本人には掴みづらい。ワタシも知識で理解はしても感覚では出来てない。
つまりは、彼らの反対の深い深い所に、家畜以外の知的生命体を殺生することへの忌避がある。
だから、日本人の捕鯨賛成派が言う「牛豚鳥は殺してるのに鯨だけダメなんておかしい」という意見は、そもそも対立の軸を誤ってるので、反捕鯨の人々には理解不能だろう。
仮にその切り口で攻め込むなら、聖書の記述そのものに踏み込まないとだけど、そんな恐ろしい事ができるわけない。
それに対して捕鯨を推進したい人々は「鯨食は日本の文化だ」と言う。この文化と宗教の対立がどれだけ不毛なことか、どうやっても解決不能なのは分かると思う。鯨食文化というアイデンティティーと宗教の教義が対立してる形なんだけど、こういう形而上の何かをぶつけ合っても解決しない事は誰でも知ってる。
誰でも知ってるのに、人はそれをする。鯨の方が賢いかもしれんなぁと考えたりもする。
要するに形而上の課題を争っても、何の道も無い。ワタシが探したいのは議論のための議論ではなく、延々と平行線を辿るだけの議論でもない。欲しいのは解決への道筋。
「鯨が増えすぎるとエサとなる魚を食べ尽くして貴重な水産資源に影響が出る」
これもとても多く見られる捕鯨賛成の意見で「鯨食害論」と言うらしい。結論から言うと、これ科学的根拠が乏しいらしい。
どころか、鯨が世界の海を回遊することで、栄養分に乏しい海にも栄養塩なるモノが行き渡るためにトータルの水産資源は増えるという学説もある。
さて、本当に根拠に乏しいのかどうか気になったので調べてみたけど、確かに根拠薄弱だった。論文を一から精査するなんてワタシには出来ないので、公的機関の発表資料を見るだけですが。
水産庁の一般向け公表物で鯨食害論を後押しする資料はこれだけ。何がどうして漁獲量が増えるかの詳しいデータは出ていない。水産庁はまだ触れてる分マシだけど、日本捕鯨協会の方はそれらしい資料さえ無い。
ここで考えるべきは、"鯨食害論が本当なら、それこそ反捕鯨国に対する最大の切り札になる"はずだし、国内世論にも大きな影響を与えて追い風に出来るはずなのに、なんでこの程度の扱いしかされてないのか。
というより、この程度の扱いしかできないと見るべきか。元々が根拠に乏しい説であったのに、サイエンス誌等で否定する論文が発表されたりしてて、鯨食害論を推すというのは無理筋な状態のようですから。
豊漁貧乏なんて言葉もあるくらいで、獲れすぎてもそれはそれで問題が出てくるから、水産庁としても他の漁業関係者の手前もあって頭の痛い所なのかなと。
要するに鯨食害論ってのは、100%否定されきったものではないにせよ、大々的に唱えるには根拠に乏しすぎるし、反証なら山ほど出てるという状態。これを反論に用いるのはどうかな?って思う。
実しやかに囁かれてる説の真偽を疑ってかかるのは、物事を考える上での基本中の基本。鵜呑みにせず、自分の目と耳と脳で鯨食害論の現在地を捉えるべきだなぁと思った。
※さらに鯨食害論について調べてみたところ、提唱した人物は鯨類研究所の理事等を務めた方で、いわゆる御用学者です。とうの本人もこの説には不確かな部分が多く、あくまで世界に議論の叩き台を提供する為のものだと発言している。
要するに提唱した本人が不確実だから今後の調査が不可欠と言ってるわけです。
一方で鯨食害論に対する反証は山ほどある。
鯨が捕食した種が捕食対象にしていた魚類は増加してるという調査結果やら、ヒゲクジラ目(鯨の目を二分する一大勢力)の鯨は一年の1/4を極地で餌を捕り(しかも極地方の餌は余剰が年数千万トンもある)、3/4は赤道付近で餌を食べずに繁殖を行うという生態でなので食害と言うほどのものはないとか。まぁ色々。
それらの反論の妥当性が高いと日本政府が認めていることは、水産庁が大々的にこの説を推す資料を出さないようにしてることからも分かる。
なんでも省内の会議で「あまりに科学的根拠に乏しい説をぶちまけては日本の科学の信頼性そのものが損なわれる」という発言まであったとか。
そう言えば上で貼ったグラフも、増える魚の種類は示してあったけど、「鯨を捕ったことで捕食されずに生き残った魚が捕食対象にしてるために減った魚」については何も触れてない。ここからして推して知るべしという感じ。
相手を理解してない捕鯨協会
Q 反捕鯨団体などは、なぜ捕鯨に反対するのですか?
A 反捕鯨団体などは、その時々に応じ、いろいろな理屈をこねて捕鯨に反対します。鯨は賢い動物で神聖な動物であるから人間が食べてはならない、水族館で飼育してはならないなど、とても一方的で感情的な主張が多く、反対のための反対であると言わざるを得ません。
これは捕鯨協会のQ&Aの抜粋。
最初に書いたように、反捕鯨の人々の多くは根っこに教義があるのだけど、それを「感情的な主張」「反対のための反対」としか見ていない。この見方はQ&Aの中で一貫してる。
同じ論法が許されるなら、鯨食は日本の文化だという主張も、彼ら反捕鯨の人々から見れば「感情的な主張」であり、「賛成のための賛成」にしか見えない。
要するに、相手の主張の根源に何があるのかを見ようともしていない。これじゃ話し合いは永遠の平行線だし、実際そうだったからIWC脱退にまで繋がってる。
交渉の当事者がこの程度の認識しか出来ていないのなら、どうやってもこの問題を解決するのは不可能なわけで、この問題で外交上のマイナスを大きく稼いでる現状を嘆きたくもなる。
ちなみに、ワタシはIWCの脱退に反対の立場になった(今さら)。
年間2000万円の拠出金負担と日本側関係者の一部が時々頭の痛い思いをするだけで、数多の反捕鯨国との決定的な衝突を回避でき、「捕鯨をする/しない」という外交カードも入手できてた。
それらを自分から景気よく投げ捨てて退場するってのはどうかしてる。外交は子供の喧嘩じゃない。
ここまで考えてきて、ワタシ自身は捕鯨は他の伝統芸能と同程度の文化保護としてなら許容されていいと思ってる。固有の文化であると説明し範囲を限定すれば、理解が得られないものでもない。実際に欧米でも現住民族の捕鯨は認められてる。
商業捕鯨はとなると、どう見ても継続性が無く、税金を突っ込む未来しか(それもごく近い未来だ)見えないので反対ってことになった。
継続性が無いというのは、一つには代替船の建造費が何処にもないこと。捕鯨母船を1隻建造するのに150億程度かかると概算されているが、毎年十数億円の赤字を税金で補填し続けてきた捕鯨事業が調査から商業に変わったとて、鯨の捕獲量が厳密に制限されてることから、収益の黒字化はまず無理と思われる。
代替船を作らないとなれば、数年のうちに現在の船が使えなくなるので勝手に捕鯨事業は無くなる。無理して船を出してまた火災事故を起こしたら(過去に2度起きてる)、今度こそ船も捕鯨も終わる。
それを避けるためには税金を突っ込む以外に無いけど、株式会社共同船舶が保有する船を税金で作ってやる謂れは無いし、そんなの国民が納得するはずもない。
それに、代替船の補助金など無いと政府が質問主意書の答弁で明言してる。
二つに人材問題。31年ぶりの商業捕鯨ということは、"商業捕鯨の技能"が30年以上ストップしていたということ。調査と商業では変わって来る部分もあろうけど(漁場の選択やら何やら)、それらを継承できる人材がいない。
継ぐ者がいない上に船も無いのでは、もはや黄昏の事業と言うしかないと思われ。
ただ、現在はほぼ否定されている鯨食害論が事実であると立証されれば状況は変わると思う。だけど、何十年も調査捕鯨をやっておきながら科学的な論拠を積み上げられなかった日本政府には無理だとも思う。
捕鯨なんてこれまで全く考えた事の無い人間が、自分の意見を持つまでのプロセスとして、ここに。