なかなか気が重いのだ。
なにしろ、ワタシは開発者・巨瀬さんを庇おうなどとは思っていないし、彼に過ちは無かったなどとは露ほども思っていない。
思っていないけど、流石にこの"やり過ぎ"な状態に対しては疑問を持つし、そも巨瀬さんの人間を知らない外野が人格否定に至るまでの口撃をしているというのはオカシイと感じるのだ。
そんで、そういう世間の風に対して異を唱えるというのは、激しいエネルギー消費を伴う。
ワタシは疲れることは嫌いだし、一文の得にもならん。むしろ、世間の風がコチラをも吹き飛ばすのではないかとさえ恐れている。
各所での開発者・巨瀬さんへの批判というのは強烈だ。
その割合もさることながら、内容も人格否定にまで至っていて、人の正義の苛烈さを思うと 疲 れ る
もう何度書いたかは覚えてないが、ワタシは人の正義が嫌いなのだ。悪意も大嫌いだが、その次くらいに正義が嫌いなのだ。
正義は往々にして苛烈。人が自らを正義だと断じた場合、大抵は周囲に巨大な害悪を撒き散らすものだからだ。そこまでいくと悪と大差ない。正義を錦の御旗にしてズカズカと踏み進んでくる"人間の何か"を思うと、「深呼吸して別の角度から自分を見てごらんよ」と言いたくなるのだ。
なぜなら、疲 れ る からだ。
ワタシはその程度の人間であり、思想上の立派な何かを持っているわけではない。
加えて、アンバランスなのも気持ち悪くてキライなのだ。
巨瀬さんにも非があったのは確か。その非に応じて報いを受けるのも当然。
が、世間の正義というヤツは、その報いに足し算掛け算して何万倍にもしてしまう。せめて、世の中でワタシ(を含む少数の人々)くらいは引き算をしてバランスを取ろうと思ってもバチは当たるまい。
落ち着いて考えてみて欲しい。
巨瀬さんのやった事は、
ハメ手を食らったため、敗北が確定したも同然の状況で投了し、対局後に不貞腐れ気味に恨み節と取れる内容を阿久津プロにぶつけた。
そりゃ、相手に対して失礼な言動をしたわけだから、悪い。その点に関しては、ちゃんとお詫びしないといかん。なにしろ、阿久津プロはルール内で出来る事をやっただけなので、それを悪いと思うのであれば、批判の矛先はルールを作った連中に向ける方がまだしも、だ。
でも、誤解を恐れずに言えば、「それしかやってない」のである。
因果応報と言いますけど、ここには自ずとバランスが存在するはず。つまり、より悪い事をすればより手酷い目に遭う。
殺人を犯せば、最大で死刑まであるし、窃盗なら死刑には絶対ならない。
量刑というやつが、その罪の度合いに応じてバランスされているからに他ならない。
という、ごく普通のバランス感覚を元に考えてみると、やはりこの総バッシングは異常だ。
当事者や関係者が被った損害を元に、巨瀬さんを責めるのは有だ。むしろ当然だと思う。
けれど、直接の利害関係がなく、まして面識もなければ、その人間性を知りもしないような外野が口から泡を吹く勢いで罵倒するというのは、これは良くない。
バランスが崩壊している。巨瀬さんは確かに過ちを犯した。けど、その、報いとしてはあまりにも巨大すぎる。
すっげーフランクに書くと、「不貞腐れて子供っぽく負け惜しみを言った」
たったこれだけなのだ。彼がやったことは。
つまり、外野に許される批判のせいぜいは、
「巨瀬さん、あなた阿久津プロに失礼な事を言ったのだから、その点については謝らないといかんよ」
これだけと思うのだ。
どう飛躍しても、人格攻撃なぞもっての他だし、彼が奨励会を卒業できなかったという過去をあげつらって笑い者にしていいわけでもない。
もちろん、時を経ても一向に阿久津プロへの謝罪がなく、開き直りを決め込んでいるなら話は変わってくるのだけど、現時点ではこういうことなのだ。
ってのが、ワタシの大体だ。
さて、さらに巨瀬さんを弁護しようと試みるなら、やはり彼の身になって考えなきゃならない。
ワタシは自分を他人に置き換えて発想するという作業は嫌いではない。
つづく。
なにしろ、ワタシは開発者・巨瀬さんを庇おうなどとは思っていないし、彼に過ちは無かったなどとは露ほども思っていない。
思っていないけど、流石にこの"やり過ぎ"な状態に対しては疑問を持つし、そも巨瀬さんの人間を知らない外野が人格否定に至るまでの口撃をしているというのはオカシイと感じるのだ。
そんで、そういう世間の風に対して異を唱えるというのは、激しいエネルギー消費を伴う。
ワタシは疲れることは嫌いだし、一文の得にもならん。むしろ、世間の風がコチラをも吹き飛ばすのではないかとさえ恐れている。
各所での開発者・巨瀬さんへの批判というのは強烈だ。
その割合もさることながら、内容も人格否定にまで至っていて、人の正義の苛烈さを思うと 疲 れ る
もう何度書いたかは覚えてないが、ワタシは人の正義が嫌いなのだ。悪意も大嫌いだが、その次くらいに正義が嫌いなのだ。
正義は往々にして苛烈。人が自らを正義だと断じた場合、大抵は周囲に巨大な害悪を撒き散らすものだからだ。そこまでいくと悪と大差ない。正義を錦の御旗にしてズカズカと踏み進んでくる"人間の何か"を思うと、「深呼吸して別の角度から自分を見てごらんよ」と言いたくなるのだ。
なぜなら、疲 れ る からだ。
ワタシはその程度の人間であり、思想上の立派な何かを持っているわけではない。
加えて、アンバランスなのも気持ち悪くてキライなのだ。
巨瀬さんにも非があったのは確か。その非に応じて報いを受けるのも当然。
が、世間の正義というヤツは、その報いに足し算掛け算して何万倍にもしてしまう。せめて、世の中でワタシ(を含む少数の人々)くらいは引き算をしてバランスを取ろうと思ってもバチは当たるまい。
落ち着いて考えてみて欲しい。
巨瀬さんのやった事は、
ハメ手を食らったため、敗北が確定したも同然の状況で投了し、対局後に不貞腐れ気味に恨み節と取れる内容を阿久津プロにぶつけた。
そりゃ、相手に対して失礼な言動をしたわけだから、悪い。その点に関しては、ちゃんとお詫びしないといかん。なにしろ、阿久津プロはルール内で出来る事をやっただけなので、それを悪いと思うのであれば、批判の矛先はルールを作った連中に向ける方がまだしも、だ。
でも、誤解を恐れずに言えば、「それしかやってない」のである。
因果応報と言いますけど、ここには自ずとバランスが存在するはず。つまり、より悪い事をすればより手酷い目に遭う。
殺人を犯せば、最大で死刑まであるし、窃盗なら死刑には絶対ならない。
量刑というやつが、その罪の度合いに応じてバランスされているからに他ならない。
という、ごく普通のバランス感覚を元に考えてみると、やはりこの総バッシングは異常だ。
当事者や関係者が被った損害を元に、巨瀬さんを責めるのは有だ。むしろ当然だと思う。
けれど、直接の利害関係がなく、まして面識もなければ、その人間性を知りもしないような外野が口から泡を吹く勢いで罵倒するというのは、これは良くない。
バランスが崩壊している。巨瀬さんは確かに過ちを犯した。けど、その、報いとしてはあまりにも巨大すぎる。
すっげーフランクに書くと、「不貞腐れて子供っぽく負け惜しみを言った」
たったこれだけなのだ。彼がやったことは。
つまり、外野に許される批判のせいぜいは、
「巨瀬さん、あなた阿久津プロに失礼な事を言ったのだから、その点については謝らないといかんよ」
これだけと思うのだ。
どう飛躍しても、人格攻撃なぞもっての他だし、彼が奨励会を卒業できなかったという過去をあげつらって笑い者にしていいわけでもない。
もちろん、時を経ても一向に阿久津プロへの謝罪がなく、開き直りを決め込んでいるなら話は変わってくるのだけど、現時点ではこういうことなのだ。
ってのが、ワタシの大体だ。
さて、さらに巨瀬さんを弁護しようと試みるなら、やはり彼の身になって考えなきゃならない。
ワタシは自分を他人に置き換えて発想するという作業は嫌いではない。
つづく。