どうしてそんな内容のスレッドに行き着いたのか謎なんだけど、こんな内容のものを見た。
Aが散歩中、駐車場で子猫が大型の鳥に襲われてた。気づいたときには既に猫は血だらけ。慌てて鳥を追い払おうとしたところ、同行していたBに止められた。
B曰く「鳥も食わないといけない。自然の摂理に感情で介入するのはよくない」
そうこうしているうちに、鳥は子猫を咥えて飛んでいった。止めた人は無表情だった。
Bは困っている人がいれば助ける面もあるし、決して冷たい人間ではないらしい。
さらに動物は好きな方らしい。
けれど、Aは猫の一件に許せないものを感じているそうな。感情の整理が付かないらしい。
それ以降、Bとは話もしていない。私(A)がガキなんだろうか?
という事があったそうな。
これについて、コメントという名の外野の意見は割れた。
B擁護派
・子猫を助けに入ったとして、そのあと動物病院の手配や(お金がかかります)その後の飼育が出来ないのなら助けるべきではない。
・子猫を助ける=鳥が捕食できないことになる。鳥は飢えても良いのか?
・子猫を助けたい気持ちは分かるけど、正直Aはガキくさい。
・襲われてるのが、ネズミだったら同じように助けたいと思うか? 助けた猫を飼うとか、最後まで責任をもつ覚悟はあった? YESじゃないなら無責任に助けるのは偽善。
A擁護派(というより、中立派のような感じ)
・AもBも間違ってない。私も猫を助けると思う。鳥が飢えたとしても。
・助からなかったとしても猫の方を助けてしまうな。かわいそうなものはかわいそう。
・鳥が猫を一匹逃したところで飢え死にするわけじゃない。猫が食われるの見たくないのも自然な感情。Bも正しいがAも正しい。
大体こんな雰囲気に分かれていた。
ワタシ的感想。
多分だけど、Aも頭の中ではBの言い分にも一理あることは分かってる。でもそれは理屈とかそういう分野の話。自分の中で理屈と感情が相反してるからモヤモヤが治まらないような気がする。
そこにもって、Bが無表情だったのが気に食わないのだと思う。感情派のAとしては、理屈を平然と述べて割り切ってしまうのではなく、どこかに迷いや葛藤みたいなものを滲ませて欲しかったんじゃないか。「Aの気持ちはもっともだ。だけどね・・・」と否定の中にも共感を織り交ぜて欲しかったんじゃないか。
もし件の状況にワタシが陥ったらどうするか。。。
鳥を追い払う、これは間違いない。そのあと途方に暮れるんだ。「この子猫どうすりゃいいんだ?」って。後先考えない感情派と思うので。そいで、この段階で「うぅ・・・面倒な事になったな」とダークな思考になると思う。ワタシは断固として清い人間ではない。
そんで、動物病院の情報を検索してそこに連絡。その後はもう成り行きに乗っかるだけなんだろうな。治療費がかかりますと言われれば、「はぁ・・・」と溜息をつきつつも支払うのだろう。
おそらく、猫の可愛さ&助かって良かったという安堵感と、なんでオレがこんな支払いを・・・という感情がぶつかりあって、素直に猫の無事を喜べる状態には無い、のだろう(予想)
多くの日本人はワタシのようになるんだろうかと思いつつも、B擁護派も結構多かったので、一体どうなるんだろう。
ついでに、Bは「自然の摂理」と言ったが、これは実は違う気がする。B擁護派も自然の摂理という事を前提にAを批判・Bを擁護していたが、これも違うと思う。大体にしてスケールの大きい言葉は人を煙に巻く。これは無用な専門用語・横文字の嵐に似ている。
自然の摂理ってやつは、もっとでかい。鳥がたまたま一度食事の機会を逃したとしても、それは猫と鳥それぞれの「運」に過ぎないんじゃないかと。
猫と鳥の間に、たまたま第三者が登場した結果、猫は捕食されずに済んだだけ。
人間でなく、他の猛禽類がその場に現れて鳥が捕食し損ねる事だってあるだろう。それと同じこと。
弱肉強食は、それこそ自然の摂理だけど、個別に摂理に抗うのは構わないでしょう。個々の運で摂理に抗ったところで、総体としての摂理は微塵も揺るぎはしない。揺るがないこそ摂理なのだ。
Aが散歩中、駐車場で子猫が大型の鳥に襲われてた。気づいたときには既に猫は血だらけ。慌てて鳥を追い払おうとしたところ、同行していたBに止められた。
B曰く「鳥も食わないといけない。自然の摂理に感情で介入するのはよくない」
そうこうしているうちに、鳥は子猫を咥えて飛んでいった。止めた人は無表情だった。
Bは困っている人がいれば助ける面もあるし、決して冷たい人間ではないらしい。
さらに動物は好きな方らしい。
けれど、Aは猫の一件に許せないものを感じているそうな。感情の整理が付かないらしい。
それ以降、Bとは話もしていない。私(A)がガキなんだろうか?
という事があったそうな。
これについて、コメントという名の外野の意見は割れた。
B擁護派
・子猫を助けに入ったとして、そのあと動物病院の手配や(お金がかかります)その後の飼育が出来ないのなら助けるべきではない。
・子猫を助ける=鳥が捕食できないことになる。鳥は飢えても良いのか?
・子猫を助けたい気持ちは分かるけど、正直Aはガキくさい。
・襲われてるのが、ネズミだったら同じように助けたいと思うか? 助けた猫を飼うとか、最後まで責任をもつ覚悟はあった? YESじゃないなら無責任に助けるのは偽善。
A擁護派(というより、中立派のような感じ)
・AもBも間違ってない。私も猫を助けると思う。鳥が飢えたとしても。
・助からなかったとしても猫の方を助けてしまうな。かわいそうなものはかわいそう。
・鳥が猫を一匹逃したところで飢え死にするわけじゃない。猫が食われるの見たくないのも自然な感情。Bも正しいがAも正しい。
大体こんな雰囲気に分かれていた。
ワタシ的感想。
多分だけど、Aも頭の中ではBの言い分にも一理あることは分かってる。でもそれは理屈とかそういう分野の話。自分の中で理屈と感情が相反してるからモヤモヤが治まらないような気がする。
そこにもって、Bが無表情だったのが気に食わないのだと思う。感情派のAとしては、理屈を平然と述べて割り切ってしまうのではなく、どこかに迷いや葛藤みたいなものを滲ませて欲しかったんじゃないか。「Aの気持ちはもっともだ。だけどね・・・」と否定の中にも共感を織り交ぜて欲しかったんじゃないか。
もし件の状況にワタシが陥ったらどうするか。。。
鳥を追い払う、これは間違いない。そのあと途方に暮れるんだ。「この子猫どうすりゃいいんだ?」って。後先考えない感情派と思うので。そいで、この段階で「うぅ・・・面倒な事になったな」とダークな思考になると思う。ワタシは断固として清い人間ではない。
そんで、動物病院の情報を検索してそこに連絡。その後はもう成り行きに乗っかるだけなんだろうな。治療費がかかりますと言われれば、「はぁ・・・」と溜息をつきつつも支払うのだろう。
おそらく、猫の可愛さ&助かって良かったという安堵感と、なんでオレがこんな支払いを・・・という感情がぶつかりあって、素直に猫の無事を喜べる状態には無い、のだろう(予想)
多くの日本人はワタシのようになるんだろうかと思いつつも、B擁護派も結構多かったので、一体どうなるんだろう。
ついでに、Bは「自然の摂理」と言ったが、これは実は違う気がする。B擁護派も自然の摂理という事を前提にAを批判・Bを擁護していたが、これも違うと思う。大体にしてスケールの大きい言葉は人を煙に巻く。これは無用な専門用語・横文字の嵐に似ている。
自然の摂理ってやつは、もっとでかい。鳥がたまたま一度食事の機会を逃したとしても、それは猫と鳥それぞれの「運」に過ぎないんじゃないかと。
猫と鳥の間に、たまたま第三者が登場した結果、猫は捕食されずに済んだだけ。
人間でなく、他の猛禽類がその場に現れて鳥が捕食し損ねる事だってあるだろう。それと同じこと。
弱肉強食は、それこそ自然の摂理だけど、個別に摂理に抗うのは構わないでしょう。個々の運で摂理に抗ったところで、総体としての摂理は微塵も揺るぎはしない。揺るがないこそ摂理なのだ。