昨日の朝のことだった。
朝と言っても、暁と呼ぶには一歩遅れてる気がするし、曙と呼ぶには少し早い微妙な空。

なんでそんな時間に目を覚ましていたのかは謎ということにして、ともかくもワタシは自転車に乗って海のほうへ行った。


夜中に雨が降っていたせいか、東京湾の上には灰色の雲がぷかぷかしている。
ぼちぼち風に流されて、しぶとく居座り続けた雨雲も散り散りになっていく。


雲間から陽の光が降る。


機械的に書くなら、早朝の雲間から陽の光が注いでます、以上。
たったそれだけのこと。



なのに、コレがあまりにも美しい。

人間が詩的存在であるなら、こういう風景を基にして、生き方なり文章なりで己の詩を表現するのだろう。などと、不慣れながらも詩的存在になろうと試みた。


人には到底描ききれないような光景を目の当たりにしたとき、人は例外なく巨大なナニカを感じるのだと思う。

それは自然界の凄さだったり、偶然が起こす事象の凄さだったり、或いは神様を感じる人もいるかもしれない。



ぷはっ、疲れた。
慣れない文体使うと肩凝る。




ま、そういうわけでね。ああいう神々しいという言葉が似合う光景を見てしまうと、
お定まりの事ながら、この世界の始まりについて考えるわけですよ。


天地創造なのかビッグバンなのか、それとも違う何かなのか。


三次元のこの世界を創ったのが上位存在だったとして、じゃあ、その上位存在の世界はどうやって出来たの?

ってなことを迂闊にも思ってしまったわけで。


じゃあその更に上位存在の世界は?と延々と考えていくと、最後には必ず上位存在に頼らないで生まれた世界が存在しなければならない。これを"始まりの世界"としておく。


だから、ビッグバンも天地創造も、この3次元の世界限定ではどちらかが間違っている事になるんだけど、"始まりの世界"から連なる一連の世界軸で考えてみると、どっちも正しいのかもしれないなーと。



何考えてんだろ…