当ブログに桜宮体罰問題のワードでお越し頂いてる方が結構いるので、世間ではどう考えてるんだろーってのを、ちょこっと見てみたのです。
○○は是か否か?
って設問は色々な場面でなされるけど、どうしてこの問題も二元論で語ろうとするの?と思う事柄は多い。まー、ワタシは議論自体がキライだけどね。
昨今、世間を騒然とさせている体罰問題もそのひとつで。
是か否か、どっちかの陣営に属せよと言われても、そんなものどっちも選びようがないわなと思うのです。あー、どっちか選ばないと命に関わるとか言われたら否定派を選ぶけど。
そもそも、この体罰議論が泥沼になってるのは
体罰をする側の年齢・性格・人格・尊敬される度合いも違うし
受ける側のそれも違うし
体罰を加える人間が"怒る"でなく、純粋に"叱る"事が出来てるかどうかも定かでないし
体罰って一言で言うけど、実際にどういう行動を体罰と呼んでるのかも一致してないし
叱られる理由もそれぞれだし
ひとつの土俵に無数の「私の場合はこうだった」的な体験を持ち込んでるのが事態を混迷させてる要因なのかなーと。
このような状況で、賛成派と否定派が相手の主張を互いに屈伏させようと考える事は、疲れそうだなと思うのです。
ワタシ自身は積極的賛成も積極的否定もしない。だって、時と場合によるんだもの。
ワタシが桜宮のバスケ部顧問の人を批判したのは、彼がスポーツ上のミスを理由に暴力を振るったからです。これは自分の思い通りに選手が動かないことに対して"怒る"という感情の元に力を行使したということ。これはいけない。
教育的な意味合いが0なので、体罰ではなく暴力だから批判したのですね。
どうも議論を眺めていると、顔面にパンチ食らわすのも、尻を平手でペチンとするのも、同じ「体罰」として扱ってる気がする。物事には程度というのがありますから、これはかなり乱暴な扱い方だと思います。
また、自身の経験を挙げて「だから体罰は時に必要なんだ」という主張も散見しますが、この主張をするときには注意しなければいけないことがあって
「主張するアナタに体罰を与えた人間は、アナタにとって尊敬できる、感謝できる人間である。だから、アナタはその経験から体罰も時に価値があると主張できる。しかし、議論の相手方に体罰を与えた人間は必ずしもそうとは限らない。また、そのような恩師と呼べる人間に出会わなかった人もいる。」
これを理解していないと、永遠に交わらない議論を繰り返すだけになってしまうと思う。
否定派の人は、自分が体罰を受けて「ありがた味を感じなかった。ただただ苦痛だった」という体験(もしくは想像)を元に否定しているのだから、賛成派の"たまたま教育的な価値のあった体罰"を実例に出されても、シックリこないでしょう。
ワタシはつらつらとこの事を考えているのだけど、
例えば、小さな子供が何度注意しても車道を横断してしまうとなったら、尻くらい引っぱたくよなーとか。痛みで相手を従わせるのは基本的に良くないことなんだけど、従わせないともっと酷い事になるわけで。
「そういうのは別だろ」って言われそうだけど、議論してる人々の多くは曖昧な定義と言葉を使ってるから、賛成派はコレも念頭に置いてるけど、否定派は「そういうのは別だろ」って念頭に置いて一致していない。だからお互いに「何言ってんだコイツは」ってなる。全員が全員ではないけど。
学級崩壊してる現場で、何度口頭で注意しても一向に素行が改善されない生徒がいたとして(実際いるけどな)、先生の側が暴力ないし嫌がらせを受けたり、真面目に授業を受けようとしてる生徒の権利が阻害されてる場合、どうやって改善するんだろう?とか。
自分が教師の立場で現場に放り込まれたら、マジで打つ手無いですよ。
んー、、、親が注意するなりしてるなら希望はあるけど、匙投げちゃってたら?
学校は教育を施す場なので、授業を邪魔するってのは、真面目にやってる生徒の憲法で保証されるところの教育を受ける権利を損なってるわけで。これはなんとかしなくてはいけない。
でも、取れる手段「口頭での注意」は効果が全くない。仕方なく真面目な生徒を守るために尻を平手打ちしようものなら、「体罰だー!!」と騒がれる。ダメだ、、、叩いたら負け状態になっている。。。あれか、バケツ持たせて廊下コースなのか。じゃあ廊下で騒がれたらどうしよう…ぐるぐるぐる。
むむむ、、、どうすればいいんだろう…
なんてことをつらつら考えている。
世の中って難しいな。。。
○○は是か否か?
って設問は色々な場面でなされるけど、どうしてこの問題も二元論で語ろうとするの?と思う事柄は多い。まー、ワタシは議論自体がキライだけどね。
昨今、世間を騒然とさせている体罰問題もそのひとつで。
是か否か、どっちかの陣営に属せよと言われても、そんなものどっちも選びようがないわなと思うのです。あー、どっちか選ばないと命に関わるとか言われたら否定派を選ぶけど。
そもそも、この体罰議論が泥沼になってるのは
体罰をする側の年齢・性格・人格・尊敬される度合いも違うし
受ける側のそれも違うし
体罰を加える人間が"怒る"でなく、純粋に"叱る"事が出来てるかどうかも定かでないし
体罰って一言で言うけど、実際にどういう行動を体罰と呼んでるのかも一致してないし
叱られる理由もそれぞれだし
ひとつの土俵に無数の「私の場合はこうだった」的な体験を持ち込んでるのが事態を混迷させてる要因なのかなーと。
このような状況で、賛成派と否定派が相手の主張を互いに屈伏させようと考える事は、疲れそうだなと思うのです。
ワタシ自身は積極的賛成も積極的否定もしない。だって、時と場合によるんだもの。
ワタシが桜宮のバスケ部顧問の人を批判したのは、彼がスポーツ上のミスを理由に暴力を振るったからです。これは自分の思い通りに選手が動かないことに対して"怒る"という感情の元に力を行使したということ。これはいけない。
教育的な意味合いが0なので、体罰ではなく暴力だから批判したのですね。
どうも議論を眺めていると、顔面にパンチ食らわすのも、尻を平手でペチンとするのも、同じ「体罰」として扱ってる気がする。物事には程度というのがありますから、これはかなり乱暴な扱い方だと思います。
また、自身の経験を挙げて「だから体罰は時に必要なんだ」という主張も散見しますが、この主張をするときには注意しなければいけないことがあって
「主張するアナタに体罰を与えた人間は、アナタにとって尊敬できる、感謝できる人間である。だから、アナタはその経験から体罰も時に価値があると主張できる。しかし、議論の相手方に体罰を与えた人間は必ずしもそうとは限らない。また、そのような恩師と呼べる人間に出会わなかった人もいる。」
これを理解していないと、永遠に交わらない議論を繰り返すだけになってしまうと思う。
否定派の人は、自分が体罰を受けて「ありがた味を感じなかった。ただただ苦痛だった」という体験(もしくは想像)を元に否定しているのだから、賛成派の"たまたま教育的な価値のあった体罰"を実例に出されても、シックリこないでしょう。
ワタシはつらつらとこの事を考えているのだけど、
例えば、小さな子供が何度注意しても車道を横断してしまうとなったら、尻くらい引っぱたくよなーとか。痛みで相手を従わせるのは基本的に良くないことなんだけど、従わせないともっと酷い事になるわけで。
「そういうのは別だろ」って言われそうだけど、議論してる人々の多くは曖昧な定義と言葉を使ってるから、賛成派はコレも念頭に置いてるけど、否定派は「そういうのは別だろ」って念頭に置いて一致していない。だからお互いに「何言ってんだコイツは」ってなる。全員が全員ではないけど。
学級崩壊してる現場で、何度口頭で注意しても一向に素行が改善されない生徒がいたとして(実際いるけどな)、先生の側が暴力ないし嫌がらせを受けたり、真面目に授業を受けようとしてる生徒の権利が阻害されてる場合、どうやって改善するんだろう?とか。
自分が教師の立場で現場に放り込まれたら、マジで打つ手無いですよ。
んー、、、親が注意するなりしてるなら希望はあるけど、匙投げちゃってたら?
学校は教育を施す場なので、授業を邪魔するってのは、真面目にやってる生徒の憲法で保証されるところの教育を受ける権利を損なってるわけで。これはなんとかしなくてはいけない。
でも、取れる手段「口頭での注意」は効果が全くない。仕方なく真面目な生徒を守るために尻を平手打ちしようものなら、「体罰だー!!」と騒がれる。ダメだ、、、叩いたら負け状態になっている。。。あれか、バケツ持たせて廊下コースなのか。じゃあ廊下で騒がれたらどうしよう…ぐるぐるぐる。
むむむ、、、どうすればいいんだろう…
なんてことをつらつら考えている。
世の中って難しいな。。。