これはブログに書くの難しいなぁ。。。


体育科入試中止。アチコチでいろいろ議論になってそうな。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130121-00000146-jij-soci



最初に書いておくと、"中止の判断が正しいかどうか"よりも、事情を外側から眺めてるだけでよく分かっていない大衆が一方的に生徒を批判するのは違う、ってことを考えてます。




日頃、自分の左右に置いておきたいモノとして、「この世界の本質を探したい」ってのがあるんですけど





仮に自分の高校時代に同じような事件が起きたとして



それが自分の所属する部活であれば、たぶん大阪市の決定に納得すると思う。


自殺に至る環境を目の当たりにしつつ放置してしまった責任は感じるし、それが顧問の責任であっても、改善へのアクションを起こせず唯唯諾諾と従ってしまった事実はあるから。




でも、自分と全然関係の無い部活で、自殺してしまった生徒とも大して面識が無かったらどうだろう。たぶん、ワタシはこの記者会見をした生徒と同じように考えると思う。


だって、体育科だけで120人枠があって普通科もあって、それが3学年分てことは全校生徒1000人規模でしょう。全然知らない相手が多くても当然だと思う。




世の大人たちは



「人がひとり亡くなってるんだぞ」


って大上段から言うけど、よく知らない部活・生徒の事を持ち出されて、ある日突然「もう体育科は潰します。部活動の対外試合も禁止します」って言われても、納得なんてできるわけがない。


だって、よく知らない所で起きてた事件だから。
そのよく知らない事のために、自分が夢中で追いかけてたものを上から取り上げられる。
これには理不尽を感じると思う。反発したくもなると思う。



まぁ、ワタシは幸いにそういう事態に直面しない高校生活だったので、実際どうなったかは分からないのですが、たぶん反発するだろうと想像してみる。




人が亡くなったのだから、とにもかくにも活動をしてはならない。というのは、"世の中のなんとなくそうした方がいいんじゃないか"的な空気にはマッチしてると思うのですが、ワタシにはどこか空疎に聞こえるのです。




ですが、勝手知ったる誰かが亡くなったとあれば、それは空疎ではなく、極彩色の本当に大変な事態なのです。





この場合、バスケ部の人間や当事者と親しかった生徒であれば、この決定に納得できるでしょう。けど、それ以外の生徒には不可能ですよ、そんなこと。言葉では殊勝にしても"納得"はできない。




自分のよく知る相手かそうでないかで、命の重みは変わってくる。それって悲しいけど本質でしょう。


残念ながら命は平等じゃない。これが本質。人間って残酷だから。
その残酷を露呈するのが怖くて、自粛や中止を声高に叫ぶんだ。


命が平等だとしたら、そんなことを叫ばなくてもごく自然にそうなってる。





世界には色々な不幸が満ちていて、日に何人もの人が亡くなっています。ぼくらはそういう情報を得ても「大変だな」「こんな事は良くないな」と、ありふれた感想を持ってそれで終わりです。大体はそうです。寝て、翌朝起きたら大体忘れます。そして、時々思い出します。でも、また忘れます。




だって、よく知らない人のことだから。
一時的に大きく悲しんでも、それは継続しない。







こう書くと、「冷酷だな」って思われると思うけど、でも人間はそう。
自分のよく知らない相手に対して、心からの悲しみを継続させる人なんて居やしない。

様々の命の悲しみを継続させてたら神経がおかしくなってしまう。



自分のよく知ってる相手の死なら、いくらでも悲しみは継続するのに。








他人を思いやる気持ちは大事。でも、主観的には命は平等ではない。
だから、せめて、見知らぬ他人にとって自分は無害であるように生きる。



「人が亡くなってるんだぞ」を錦の御旗にして誰かを弾劾していいのは、当事者と、今この瞬間にもありふれている世界の不幸を真剣に憂えている人だけだと思う。



それ以外の人間は、事態の全てが明らかになるまでは、無闇に誰かを批判すべきじゃない。











生徒たちは体罰を容認なんてしてない。



誰が好んで殴られたいものか。




他の部活でも体罰があったとのことだけど、その彼らだって体罰を容認なんてしてない。
まして、体罰教育に洗脳なんてされちゃいない。



それでも、続けたいと思うのは


暴力を受けたとしても、部活を辞めたくない。そのスポーツをやりたい。
そういう気持ちがあるからだと思う。



その気持ちは分かるんだ。

あの年頃って、"世界の全ては部活にある"って錯覚に陥るくらいに部活が大事で、それを奪われるなんてトンデモナイこと。そういう生徒はいくらでもいる。


ワタシ自身がそうだったから。




たとえ体罰を受けたとしても、それを耐えてでも成し遂げたい何かを少年たちは見ている。



だから「耐えてきた」



耐えてきた結果がコレなら、彼らが今日まで耐えてきた事の意味はどこにあるんだろう。






それだけ強い思いを持ってる子達から活動の場を取り上げるのは絶対違うと思う。
体育科の存在が悪いんじゃなくて、暴行を加える教師と最初の報告時に対応しなかった連中が悪いのに。