私は待っています | 分散と結晶化★岡田 歩のブログ

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探求、目覚め、ヒーリング、オーガニック精油

えっと、今日のブログは、また、近況報告で、
しかも、だらだらと、答えのない独り言風だす、
そうゆうのNGな方は、文字無視で、
写真だけをサッとお楽しみください


となりの家の馬さんたち

海外逃亡休暇中。
電話とメール以外では、人間と対面で話したのは1名のみ。
後の直接交流は馬と犬のみ。

そんな日々ですが、
昨日まで、なんとなく、ゆるゆる仕事をしてますた。

3月から始まるセラピスト育成コースのテキストのバージョンアップ作業と
「アリゾナ特別遠隔セレモニー」。
先ほどフィードバックをご参加のみなさまにお送りして、ひとまず完了。




今回は、「役割への決心」というテーマでセレモニーをしたんだけどね、
それが、こちらに来る10日ぐらい前から、
『ただ死ぬのを待っている』というイメージが内側から
どんどんやってくるんですよ。

でも、でも、本当にそうです。

健康で楽しく長生きは素晴らしいけれど、
そうはいっても、たった数十年の違いです。
そして、間違いなく死にます。

今と何も変わらなくて、
自分が待ち望んでいたことが自分に起きないかもしれないということを
受け入れたとき、どう生きるか。そんなことが毎日、意識に
浮かび上がってきました。

自分の世界は自分が作るのは、本当だと思うけれど、
イメージできるすべてが、言葉どおりそのままのことで
やってくることは、私は、ないんじゃいかなーって思う。
たとえば、日本人に生まれたら、日本人の体のままでしょ。
肌を焼いたり、髪を染めたり、できるかもしれないけど、
それは、肌を焼いたのであり、髪を染めたわけであり、
違う人種になったわけではないですよね。

そうゆうレベルで見たら、やはり限界はあります。

私がいる環境は、身の危険が差し迫っているようなものではありません。
一般的な視点でいって、ある程度の豊かさと安全があります。

だから、こんなことを言えるのだと思うのですが、
自分に待ち望んでいたことが起きないということを受け入れても、
別に私は変わらないという感覚が強まってきました。

実現するとか、しないとか、そうゆうことを目標にしていきるわけじゃなくて、
ただ生きる。

ただ存在する

そういえば、去年はそれを心に抱いていたんだったっけな

死ぬのを待っているということを最近強く意識したとき、
私は、最初は退屈と、強烈な閉塞感、そして絶望を感じた。

今は、よくわかりません(笑)

このアリゾナの青い空の下では、どちらかというと
死ぬのを待つことを知っていることが、
より自分を自由にしているような感覚があります。

私の友人は - その友人の方は諸事情で
だいぶ差し迫った状況なんですが - 
死ぬのを待っているのを意識したときに、
自分のネガティブな気持ちが長く続かないそうです。
ネガティブさの自作自演ぶりが見えてきて、めっさ笑えてくるんだとか。

私は、別に笑えません。
私が彼女の立場だったら、すごーくすごーく陰気になりそうなんだけど、
本気でめっさ笑える人もいるわけです。

自分はそうはなれるような気がしないんだけど、
そうゆう違いをもって、ここに存在しているんだな~と、
人間存在の面白さを感じます。
そして、ありがたさを。

生きること自体が役割で、この役割というのは、
選択できるものではありません。もれなくついてくる役割。

そして、私は死ぬのを待っているのだけど、
その間に何の役割を担うのか....
どんどんわからなくなってきました。

わからなくても自分が収縮しない、
死ぬのを待つことが、ネガティブな影を自分に落とさない、
そうゆうことを、私、個人は体験しているのかもしれません。

アリゾナに来る直前、歯医者で、
たまたま手塚治虫のブッダという漫画を読んだのね。
2年間通ってて、初めて置いてある漫画を読んだ。
絵と文字とどっちを見ていいかわからないので、漫画苦手なの(笑)

シッダルダも死とか病気とかが怖くて、修行を始めるんですよね。


その漫画では、
人間もこの自然の中にあるからにはちゃんと意味があって、
あらゆるものとつながりをもって生きている』ということを
深く理解したことによって、シッダルダは悟りを開き、
私は命の限り果たしますこの宇宙の中の私の役目を!」という
セリフにつながっていました。

これは漫画だし、事実はどうかはわかりませんが、
わたし個人はこう感じました。

こうゆう役目を果たしますとか、
こうゆう役目に目覚めましたということではないのかもしれない....

本当にいろいろな人がいて、いろいろな存在があり、
多様な中にいて、

みんな役割は自動的にあるのだと、私は感じます。

ある人は具体的な役割を意識するでしょうし、
そうでない人もいる。

そうでなくても、そうであっても、私にとっては、迷いではなく、
自由の方向に向かっている...

そういえば、幼稚園の頃から、成人するまで、
毎日、
死んだらどうなるんだろう、って、
考えていた。
体じゃなくて、意識が死ぬことが怖かった。

今は、その感覚は見当たらない。

ただ、私に展開されている世界の中で、
そのときの精一杯で生きるだけ。