仙台からの贈り物

仙台からの贈り物

仙台 あの日 あのころ そして今

仙台を離れて 45年超えの私。

仙台で、母は元気に90歳を超えました。

母からの電話の話題は

仙台 あの日 あのころ そして今

互いに、記憶の出し合いっこ。

そして私は、あることがきっかけで、仙台の記憶を書き留めておきたいと、

このブログをはじめました。

こんにちは。

 

仙台駅構内にある、牛たん通り。

入店待ちの観光客が、通路に並んでいる。

 

仙台駅牛たん通り

(JR東日本総合サービスのホームページより)

 

たまたま~行列無しで、たまたま~お腹も

すいていたので、「思い切って」入ってみた。

 

おしゃれにデザインされた店、ではあるが、

「思い切って」入るような、高級店ではない。

ない、ない、ない。(重ね重ね失礼)

 

本当に「思い切って」牛たん店に入ったのは

昭和50年のこと。

 

雪が降る、寒い夜だった。

先輩の案内で、国分町近くの牛たんの店へ。

たしか「太助」だったと思う。

 

暖簾をくぐると、おじさんたちの視線が・・・。

(自意識過剰ではない)

うら若き?女性が連れ立って牛たんの店は、

ちょっと・・・の時代。

牛たんは、メジャーな食べ物とはいえず

私も、牛タンを食べるのは初めてだった。

 

牛たんを食べられるのは、呑み屋、酒場、

縄のれんの感じの店だったと思う。

(話を聞いた母は、眉をひそめていた。)

牛タン

カウンターの中央に焼き台があって、

店内は、牛タンを焼く煙が、充満。

(換気扇などは機能してはいない)

 

桶に牛タンが積まれ、布巾が被せてあった。

牛タン、テールスープ、麦飯に白菜の漬物。

 

寺山修司主宰の天井桟敷、アングラと呼ばれた

演劇も、下火になりつつあったが、その夜は

早稲田小劇場の公演に行く予定だった。

 

調子に乗って、日本酒飲んで、ホカホカ温まり

全身、においプンプンで会場へ向かった。

 

もし、その後が、クラシック演奏会だったら

さすがに、無理だったでしょう。

案内してくれた先輩は、声楽家でした。

 

牛タンは、今やすっかり仙台名物。

帰省した折に友人親戚に発送、自宅用に買う。

 

仙台土産も時代で変わり、「萩の月」の出現

から、ずんだ系の勢力拡大、駄菓子の再評価。

(Eテレの「グレーテルのかまど」の

 「仙台駄菓子」見ましたか?)

 

 

さて、4月の仙台駅で目にした行列は、

羽生結弦氏推しの友人から聞いていた

噂の「シーラカンス最中」。

復興アイスショー参戦記念のお土産で頂き、

私は試食済み。

人気はすごく、七夕の後も列を作っていました。


シーラカンス最中の列

(4月、「シーラカンス最中」に並ぶ人々)

 

我が家は子どものころから、最中と言えば白松だった。

お土産に栗羊羹と最中は定番だった。

 

シーラカンス最中に並ぶ人々を見た翌日、

「寿三色最中」会社が自己破産申請という

いうニュースを見て衝撃を受けた。

 

「コトブキ、コトブキ、コトブキの三色も~な~か」

と、70過ぎた今でもすぐ歌えるCMソング。

しか~し・・、なんと、私は購入したことが無い。

 

妹に知らせると、即、電話口で

「コトブキ、コトブキ、コトブキの~」と歌う!

が・・なんと、妹も購入したことが無いという。

 

3色の餡が楽しめるという発想は素晴らしいし、

多分、仙台市民の多くに刷り込み成功している

稀有なCMソング!

 

それなのに、購入に繋がらなかったという

(我が家だけかもですが)厳しい現実!!

商売って、本当に難しい。

 

 

 

そして、変化するお土産人気の中でも、

「笹かまぼこ」は不動の地位を守っており、 

それには、昔はなかった真空パック技術の

貢献が大きいし保冷剤等のおかげだと思う。

 

材料の魚の種類から、中に入る具も様々、

燻しやらバリエーションは無限に進化している。

 

それでも、店の人気ランキングのようなものは、

時々で変わっているようで、商売は大変です。

笹かまぼこ

 

さて、堤通五番丁角に笹かまぼこ屋さん

があった。

大空襲で、一帯が焼け野原になる前からの店

なのか、そのあとから始めたのかわからない。

私が生まれた時には、あった。

 

正真正銘手作りの、笹かまぼこ!

 

痩せて背が高い、かまぼこ屋さんのご主人は、

奥さんと二人で、笹かまぼこを作っていた。

「笹かまぼこ」のみの製造、販売の小さなお店。

 

材料のすり身を作る機械が回る、

出来たすり身を、串に一本一本ぎゅっと付ける。

手作業だった。

(笹の葉型の枠で、一旦形を整えていたのかは

不明)

それを火の前に並べて立てて、ひっくり返して

両面を焼く。

(炭火?電熱機?だったのか不明)

焼きあがったら、串から抜いて、

大きな丸く平たい竹の籠の上に、ポンと投げる。

重ならないように、広げて冷ます。

 

ガラス戸越しに、のぞく子どもたち(私も)。

黙々と工程を進める仕事ぶりは、騒がず静かに

見ていなくてはと、子どもに思わせた。

 

笹かまぼこは、とても便利なおかずだった。

うちでは、お昼のおかずが足りない時や

急なお客さんが来た時に、プラス一品で
買いに行くことが多かった。
笹かまぼこ3枚

味付けがほとんど無い、素朴な笹かまぼこは、

当然だけど、焼きたてが一番おいしい。

 
大工さんが来ている時など、焼きたてを出す
ため、頃合いを見計らって買いに行かされた。
狙うは、すでに焼かれ、冷めかけた物が売れ、
現在進行形で焼いている、焼きたての笹かま。
 
アツアツの笹かまぼこを竹皮に並べ、薄い緑色
の紙で(記憶では)包んでくれる。
 
ほかほかの包みを抱えて帰る、お使い。
お弁当を広げていた大工さんたちが、
喜んでくれるのがうれしかった。
 
笹かまぼこは、日常のお惣菜、
お土産品ではなかった。
 
現在も有名な、笹かまぼこ店の蒲鉾を
始めて食べた時、ずいぶん味付けされていると
感じたものだった。
 
町の笹かまぼこ屋さんが、毎日焼いていた
笹かまぼこ。
素朴な味だった、あの笹かまぼこを
もう一度、食べてみたいと思うこの頃だ。

 

 

 

 

こんにちは

 

仙台に、2週間越えで行っておりました。

その間、ブログを書くつもりでPC持参。

 

しかし、ラグ交換,コタツ設置、冬タイヤ交換、

外の鉢を室内移動、花の苗買い出し等々・・。

花屋に並ぶ苗

 

花屋のディスプレイ

冬支度手伝いに忙しく、書けないまま帰宅。

 

それでも、11月1日に↓に参加出来ました。

 

四ツ谷用水パンフレット

 

日頃のグータラが祟り、前日は疲れ果て、

風邪の前兆なのか寒気、加えて大雨予報。

キャンセルを迷ううちに、迎えた晴天の朝!

 

大崎八幡宮大鳥居の下に、集合。

大崎八幡宮大鳥居

応募数は4倍だったとのこと、キャンセルなんて

申し訳ない、貴重な機会を逃すところでした。

 

八幡宮 月首祭の案内板

石段の上から、斎行の「生」雅楽が聞こえて

八幡宮石段

八幡様と言えば、凍える冬のどんと祭。

昔の思い出、山盛りありですが、それはあとで。
 
伊達政宗公の命により造られた用水路。
3.11で、下水道だけは機能が失われなかった
のはこの用水遺構のおかげと知り、驚くばかり。
 
NPO法人 水・環境ネット東北の方々のガイドで
ぶらタモリのように、歴史、地勢、土木、暮らし、
興味が広がり、あっという間の2時間でした。
 
有難うございました。
 

 

さて、昭和30年代、町内の店にまつわる

思い出、今回は靴屋さん。

街ではない!町の靴屋さん。

 

最近「靴職人」といえば・・

ボンジョルノ~、イタリアで修業しました。

(短期ではあっても・・)

 

おっしゃれな店舗、汚れてはいてもかっこいい

作業エプロンとか、そんなイメージ。

(私だけならすいません)


靴職人のおじさんが、どこで修業して、

靴屋を開いていたのか分からないけれど、

一から、革靴を作って、修理もしていた。

 

昭和27年、父が開業するより早く靴屋さんは

あったという。

 

町の「靴職人」の店。

父の靴も、私の靴も作ってもらった。

昭和の庶民のオーダーメイド!

 

小さな店内は、皮や靴の木型が山積み。

おじさんの前には、靴を被せる鉄の台、皮を切り

削ったりする、各種彫刻刀みたいな物。

釘を引っこ抜く器具、釘や、縫う紐とか、針、

容器に入れた黄土色のもの(にかわ?松脂?)

釘の箱、種々、並んでいた。

最初に作ってもらった靴は、よく覚えている。

 

「靴屋さんに頼んでおいたから、行ってきて」

母に言われて、足の型を取ってもらいに行く。

遊んでいた、近所の子たちもついて来る。

 

父の大きな革靴を持って、修理を頼みに

行く時も、ついてきた。

 

おじさんは、にこにこして作業を見せてくれた。

膝の上で、厚い皮を削って踵を作る。

打ち付けられている細い釘を引き抜く。

何か塗り付けた麻紐で、力を入れ縫う。

 

中でも、興味津々だったのが、細く小さな釘を

打ち付ける作業だった。

 

NHKプロフェッショナル「仕事の流儀」に紹介

されたハドソン靴店、村上塁さんの記事に、

「靴底に打つ釘は、抜けにくくするために

錆びさせて使っている」というのがあった。

 

「おお!そうだったのかも」と納得。

並べた釘には、錆びた釘の箱もあった。

 

 

さて、引き付けられた「魅惑の技」とは?

 

おじさんは、小さな釘を口の中に複数入れて、

一本一本出して、金づちで打ち付けていた。

 

この、口の中から釘を出すというのが、衝撃で、

手品みたいでもあり・・

「痛くないの?」

「味する?」

「間違って飲み込まないの?」

食いついて、おじさんを見守る。

 

口の中に含む理由は、聞いたのかもしれないが

覚えていない。

靴底の周りに、皮を打ちつける時だったような。

湿らす、わけがあったのかも・・。

 

密かに思わずにはいられなかった。

「試してみたい・・」

父の手伝いで、道具箱の釘を見ると、

誘惑が私を誘うww。

 

しかし、危険な行為と、さすがに働く自制心。

 

今になって思う。

食いついて見てた、みんな~!

試したりは、しなかったのでしょうか。

 

靴の完成が楽しみで、何度も見に行った。

 

そして、出来上がったのは真っ黒・・。

かわいいとは、思えない・・黒い靴。

先が丸く、ベルトをパチンと横に止める靴。

 

黒い革靴

(こんなにかっこよく、とんがってはいなかった)

 

革靴だから、履き始めは硬い。

長い期間履けるようにと、大きめに作るので

中敷きで、調整してくれた。

窮屈になると、あちこち調整してくれる。

 

そのおかげで、足がすれて痛かったとかいう

記憶は一切ない。

 

その次の、一足も、全く同じデザインの

黒い革靴だったと思う。

 

(またか・・)と、内心がっかりしていた。

いつから、この、父好みの靴でなくなったのか、

覚えていない。

 

 

イタリアでは「靴はその人の人格を表す」

ということわざがあるという。

 

ヒールがあれば嗚呼、哀しいかな、

股関節が痛む高齢者の私・・。

ドタドタ歩いて、決まって外側を減り減らす。

 

そんな私の履くペタンコ靴が表す人格とは・・。

 

 

こんにちは

 

仙台の旧市街地は、碁盤の目のように、

南北の通りに、東西の通りが交わっていた。

 

昭和30年代、堤通の北三番丁から

北六番丁の間の町内。

そこにあった店を、母にも確かめつつ、

思いつくまま数え上げれば・・。

 

八百屋3軒、魚屋2軒、肉屋、酒屋、米屋、

氷屋、味噌醤油醸造店、食料品店、駄菓子屋、

靴屋、ガラス屋、洋裁店、卵屋、下駄屋、電機屋

自転車屋、床屋、パーマ屋、薬屋、金物屋、

クリーニング屋、布団屋、洋品店、かまぼこ屋、

貸本屋、蕎麦屋、金物屋、ホルモン焼き店、

中華料理店、飲み屋・・。

40年代に入ると、建て替え等で店は替わり、

鰻屋、洋食店、寿司屋等も。

 

病院関係を抜いても、これだけの業種が

わずか3丁の間にあった。

 

そのころ華やかなりし三越の商店街までは

バス停1つか2つ先、今も地下鉄1駅。

「歩けば?」って言われる距離にあるが、

庶民の日常の買い物は町内ですべて済んだ。

 

とても暮らしやすかったと、母は言う。

そして、子どもには、楽しい町内だった。

 

路地には、約束無しでも子どもが集まって、

(日本全国そんな感じだったのでしょう)
ゴム飛びや、鬼ごっこ、

声も高らかに「あの子が欲しい!」と、

花いちもんめ。

紙芝居は、大太鼓を鳴らしてやってくる。

 

季節ごと、醬油メーカーの旅芸人による

「生」広告、チンドン屋もやってきた。

(これは、得も言われぬものだった。)

 

昭和の店舗をAIイラストで

(頭の中には、当時の風景を再現できる。

けれど、悲しいことに描けない私。

噂のAIで試してみたものの・・)

 

遊びに飽きると、付近の店を眺めて歩く。

 

そして、「近づいては、いけない」

と親に言われていたのが・・・

 

ガラス屋だった。

 

ガラス屋さんを村八分にしていたわけではない。

大型の板ガラスや、鏡がある店内、

ガラスの破片が飛び出している、ブリキ缶。

 

子どもがうろついては危険極まりないし、

第一作業の邪魔になる。

木の桟の窓ガラス

 

アルミサッシが出てくるまでは、

とにかく昔は、よくガラスが割れていたと思う。

 

挟めている木の桟が古くなり、緩んだり、

乱暴な開閉で、ガラスが抜け落ちたりしていた。

 

台風の後など、にわかにガラス屋が忙しくなる。

夫婦と、息子で回しているガラス屋だった。

 

大きなガラスは、小さいトラックで運んでいた。

お兄さんは、片手にガラスを抱えて、自転車。

 

作業の様子は通りから、よく見えた。

 

広い作業台の上のガラス板に、物差しを当て、

何かで線を引くように切れ目を入れる。

パンとたたくか、器具で挟めて、余分な部分は落とす。

(子どもの観察記憶だから怪しい)


ある日、裏の空き地で遊んでいると、ガラス屋の

お兄さんが手招きをした。

にこにこと、子どもに話しかける人ではない。

そんなことは、初めてだった。

 

ガラス屋には、お兄さんしかいなかった。

私は、親に見つからないか、ビクビクしながら、

でも、年上の子たちも一緒なので、店に入った。

 

木枠に、大きな鏡とガラスが立ててあった。

そして!色々な模様のガラスもあった。

 

模様ガラスに、私はとても、とても憧れていた。

 

友だちの家には、柄が違うガラスが入っていた。

割れた時、同じ柄のが無くて、別な模様のを

入れざるを得なかったらしい。

 

我が家は、ブツブツと目が粗い、あられ状の

厚いすりガラス。

雨戸のあるところは、ただの透明ガラス。

 

この、ただの透明ガラスが、本当にたま~に、

美しい模様ガラスに変わる驚きの時があった。

 

厳寒の朝、氷結して浮かんだ奇跡の模様。

残念ながら、日が差すと幻のように消えた。

 

ガラスについた氷結模様

 

 

そして、Xのおすすめに流れてきた、美しい

ガラスが組み合わされたパネル。

 

「ステンドグラス モワノ」

stainedglass moineau 

@s_moineau

 

私の憧れていた模様、昭和ガラスを素材に、

ペンダントランプ、スタンドランプ等、美しい

素敵な作品を、創られていらっしゃいます。

最近の作品のお香立ても素敵です。

 

画像は、許可を頂いてお借りしています。

パネルを見て、当時名付けられた模様の名前を

考えてみてください。

       

昭和ガラスのパネル

    

            下矢印

 

模様の名前

どのネーミングも素敵ですね!

 

昭和ガラスのパネル2

    

            下矢印

 

模様の名前2

 

我が家は、和室が多いので障子のイメージで、

スリガラスのドアを建具屋さんにお願い。

ガラスドア

築35年になりますが、子どもや孫たちの乱暴な

開閉にも、一枚も割れずに頑張っています。

ガラスドア

 

 

 

さて、ガラス屋の敷居をまたいだ私たちに、

お兄さんは、ガラスをカットしてみせたのです。

 

使っている道具の先を見せながら、

「ダイヤモンドがついている」

説明に、みんな驚き、

一番硬い物はダイヤモンド」

知って驚いた私。

 

おまけに「万華鏡を作って」と、鏡を長方形に

カットして、3枚ずつ渡してくれたのです。

 

「万華鏡!」

これもまた、私の憧れの物。

 

でも、現在のように百均で手軽に手に入ったり

樹脂のミラーなどの材料も手に入らない時代。

うれしくて、うれしくて、急いで家にお持ち帰り。

 

ガラス屋さんの店に入ったことを、おそるおそる

報告したのでした。

 

 

 

こんにちは

 

7日は中秋の名月・・・でしたが

私の住む地域では、厚い黒い雲。

 

友人は、雲間に一瞬現れた月をとらえて

ドラマチックな画像を送ってくれました。

 

黒い雲間から現れた中秋の名月

 

稲穂の代わりのススキにお団子に、

神様と繋がりを現す(?)ツルのある葡萄等々

 

地域やおうちで、中秋の名月のお供えは様々

近所の空き地のススキ

 

 

仙台の実家でお供えの中心は梨でした

 

「梨」といえば「利府」!

 

しかし、8月のTVニュースで、

梨の宮城県一の生産量を誇る蔵王町・・と。

 

い、いつの間に?!

 

梨と言えば「利府」しか思い浮かばない私。

 

すいません、蔵王町にケチ付けるわけではなく、

私の子供時代からそうだったのかもしれない。

 

「利府って仙台駅から遠いの?」

 

復興アイスショー「notte stellata」のため仙台に

に向かう、羽生結弦氏推しの友人に聞かれた。

 

羽生結弦の壁面ペイント

(七夕まつり期間、閉店したイオンを囲む壁面に

サンドイッチマンと羽生結弦氏が現れた。

結弦氏推しの友人に送信)

 

会場は利府セキスイハイムスーパーアリーナ。

 

「すまん、すまん、わからない」の私。

 

宮城スタジアムなら知ってる。行ったことはない。

2002年のワールドカップ、予想を超えての

勝ち上りで、宮城スタジアムまで来ることに!

 

トルシエ監督率いたサムライブルー試合会場。
(チケットのゲットは電話かけまくりの時代)

 

コロナ禍の東京五輪で、サッカーの試合が、

確か宮城スタジアムでも行われた。

 

そして仙台のホテルが何処も満室の時は、ほぼ

アイドルグループのコンサートが利府である時。

 

仙台で利用するタクシー、平和交通さんのX。

「×日は利府方面へのご予約が既に埋まり

キャンセル待ちも出来ません」

 

これで、イベントがあることを知る。

 

千両梨

(当地でよく出ている、梨は梨でも千両梨。

 立派で、お手頃価格だけれど、甘さは・・)


「利府のおばさんが来たよお!」

 

店番をしている母が、茶の間の私に声をかける。

 

毎年、利府の梨を売りにおばさんがやってきた。

 

急いで玄関を開けると、大きな箱を三段ほど

うず高く重ねて背負うおばさんが、立っている。

 

今考えるとその人は、30代後半か40代初めだったと思う。

 

上り框に腰を掛け、背負子から肩を抜く。

 

どんだけ重かったのだろう・・・。

 

首にかけていた手拭いで、汗を拭く。

下はもんぺだったのかなあ・・。

 

店番を抜けてきた母に、利府のおばさんは

梨を取り出して、今年の出来を話す。

 

梨は長十郎で、豊水も少しあったように思う。

 

店番がある母と、一軒でも多く回らねばならない

おばさんは、のんびりおしゃべりしていられない。


そして、待ってました!いよいよ出ました!

 

おばさんが、計りの木製の棒を出すのを

待ち受けていた私。

 

梨を包んだ風呂敷を、天秤棒の片側につるす。

反対側に下げた分銅を移動して、釣り合いを取る。

 

値段交渉がまとまる。

 

母は急いで店にもどり、私は買い物かごに梨を

受け取る。

「はい、おまけ」と、おばさんは1個足してくれた。

 

おばさんは、梨の入った箱を風呂敷で包んで、

重ねて、背負子に腕を通す。

 

子どもから見て、決して大柄な人ではなかった。

 

立ち上がり、前かがみで歩き出すと、ほっとした。

 

秋の美しい雑草

 

門を出る後ろ姿を見て、玄関を閉めた。

 

利府から、重い梨の箱を重ねて背負い、列車で

来たのか、中継地があったのかわからない。

 

毎年梨の出る季節には、あのおばさんの姿を

思い出さずにはいられない。

 

秋に訪れた利府のおばさん。

日焼けした朗かな人だった。

 

体は細くても、なんとたくましい人だったのだろう。

 

利府の梨まつり

(こういうイベントがあったのですね。

 来年は行ってみたい)

やっぱり私、「梨」は「利府」!

 

おうちで楽しむ陶器市 うちる

 

 

 

こんにちは

 

体調を崩す家族がおり、だからといって

そしてまた、ブログ開始のきっかけだからといって

この季節になってまだ、だらだらと

七夕まつりを書くのはさすがに・・。

 

まだまだ、あるあるの、昔の

「仙台七夕まつり」のお話は、またにして。

 

はじめて七夕ナイトフェスへ行ってみた。

夜の国際センター駅

 

夜の国際センター駅

 

五色沼に浮かぶ・・九曜紋。

九曜紋

五色沼の上に月が・・。

 

五色沼の上の月

 

そして、長沼へ。

 

覗き込むと怖い闇色の長沼。

 

長沼 ライトアップで闇色

 

ナイトフェスの気球と月!

 

気球の上の月

 

これが一番!青葉山の坂を上る仙台観光バス

「ループル」

私も初めて今回、乗りました。

夜の青葉山を行く観光バスループル

 

お月様にも恵まれた、七夕まつりの夜でした。

昨日は中秋の名月でしたが・・。