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仙台からの贈り物

仙台 あの日 あのころ そして今

こんにちは。

 

8月5日、実家の塀に飾りの竹が括られていた。

 

商工会関係?子供会関係?不明。

 

何も声掛けが無かったと、母はやや不機嫌。

 

「今年限定のレアな飾りだよ。ラッキー!」

と、なだめた。

 

ミャクミャクの七夕飾り

【残念なことに6日の雨に当たって、

可哀そうな状態になったミャクミャクさん】

 

どちら様方が作られて、立てて下さったのか

存知上げませんが、有難うございます。

 

昭和40年の仙台地図を購入した

風の時編集局から新刊が出たそうな。

 

「センダイ・タイムマシン」

・・昭和と令和を行ったり来たり・・

 

「定点写真で見る仙台」のまねっこをしてみた。

(すいません、こちらは未購入です)

 

【昭和35年ごろ】

昭和35年頃町内の七夕飾り

【令和7年】

令和7年町内の七夕飾り

 

我が家で作った七夕飾りの中で、

1番、記憶に残っている飾りがある。

 

私は3年生ぐらいだった。

 

店に届いた商品が(何だったのか忘れたが)

大きな楕円形の竹籠に挟まれて送られてきた。

 

竹籠で保護なんて、いかにも時代を感じる。

 

どら焼きみたいにふくらんだ、楕円形の籠2個。

 

それを見て、ひらめいた!

 

女の子の顔の(チビまる子ちゃんみたいな)

七夕飾りが作れる。

 

籠の目が粗く、花を付けるのに苦労はしたが

ユニークな飾りを、ご近所さんに褒められた。

 

とてもうれしかった。

 

まさかブログを始めるとは思ったこともなく、

母の潔い断捨離の繰り返しの結果・・

その写真が無いのが、今となっては残念・・。

 

七夕飾り核兵器のない世界を

【市民グループの

 世界平和と核兵器廃絶を祈る七夕飾り】

 

さてさて、2025年の仙台七夕まつり。

 

今年で15年目の故郷復興プロジェクトの一環

 

東日本大震災からの復興を願い、

児童生徒が折った折り鶴をつるした大きな飾り。

 

「復興折り鶴」

 

TVや新聞で、必ず取り上げられるあの飾り。

 

「見ておかなくちゃ!」

 

私は軽い足取りで藤崎前に向かった。

 

 

「あれだ!」

 

巨大なつるし飾り・・・

復興折り鶴

前にきて、足が止まった。

 

7万8千羽の折り鶴・・・。

 

祈りと願いを託されて、一人一人の指先から

生まれ、羽ばたいた折り鶴の大群。

 

「飾り」を超越している。

 

復興折り鶴の真下へ

 

深い緑色の折り鶴を、囲む純白の折り鶴。

 

白い鶴は結界を結び、

 

7万8千余の祈りと願いを

 

静かに守っているようだった。

 

折り鶴を折った

 

全ての児童生徒さんたちが

 

未来永劫幸せでありますように。

こんにちは

 

昭和28年開業した実家の店は、七夕期間中も

 

いつもと変わらず、8時過ぎ9時近くまで

 

営業していた。

 

毎月第三日曜日が定休日と決まったのは

私が高学年になる頃だった.

 

町内が皆そうだったので、それが当たり前。

 

働き過ぎとか、考えることはなかった。

 

早めに夕飯を食べて、浴衣を着てスタンバイOK。

 

薄暗くなってきたし、「出かけましょう」と

 

母が声をかけてくれるのを、今か、今かと待つ。

 

しかしそういう時に限って、お客さんが途切れず

 

やってきたりする。

 

七夕飾りの店の前で

【昭和31年頃 七夕に浴衣を着て

 店内にも七夕らしい飾りつけをしている】 

 

店番があるので、父と母とそろって一緒に七夕を

 

見に行くことはできなかった。

 

6日は母と、そして後日、父とも出かけた。

 

やはり初日は特別。

 

待っているうちにぽつり、ぽつりと雨が降り出し

 

たりすると、うらめしかった。

 

早足で通り過ぎる市役所前には、出店が出ている。

 

めざす一番町の入り口付近は、特に込み合っていて、

 

迷子にならぬよう、ぎっちり母と手をつないで進む。

 

吹き流しで隠れている前の方から、

 

「キャー」と、聞こえてくる悲鳴やどよめき。

 

「仕掛け物」だ。

 

お化けが並んだ高い舞台から、

 

ろくろ首がにゅーっと伸びてきた年もあった。

 

昔、仕掛け物は2.3か所はあったかと思うが、

 

今年は見なかったように思う。

 

(見逃していたら、ごめんなさい)

 

弟も浴衣でおまつりに

【弟も浴衣を着て、七夕へ出かける前に撮影】

 

街中に流れていた島倉千代子

「七夕おどり」の歌。

 

お囃子の音も賑やかで、おまつり気分アゲアゲ。

 

「ギンギンギラギラお星さまもうれしそう」の

 

歌詞は、子どもでもすぐに覚えてしまう歌だった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

🎵晴れて楽しい 星空見れば🎵

 

🎵青葉城から 笛太鼓、笛太鼓🎵

 

🎵年に一度の 七夕祭り🎵

 

🎵ギンギンギラギラお星さまもうれしそう🎵

 

🎵笹に花咲く 街かざり🎵

 

そして、間奏の笛やお囃子がいい!

(ピーロリロン ピーロリロン 

        ピロピロピロピロロー)

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

うきうき歩いていると、ふいに聞こえてくる

 

アコーディオン、時にはハーモニカの音。

 

吹き流しの途切れるあたりに見える、

 

軍帽をかぶった白い衣の人。

 

松葉杖をついて立っている。

 

両足を失ったのか、台車のような物に座って

 

いる人もいた。

 

七夕まつりやどんと祭に現れる傷痍軍人。

 

「戦争に行って、怪我を負って帰った人」

 

ということはわかっていた。

 

傷痍軍人の記事

【2025年7月27日付の朝日新聞特集

「戦後80年 重ねる今昔 重なる思い」に 

「清水寺に傷痍軍人」の記事があった。

日本傷痍軍人会は多い時で約35万人との記事」

 

以前、職場で若い人に聞かれた。

 

「子どものころ、まだ戦争やってましたか?」

 

驚愕して「はあ?ばかなの?」とまで思ったけど

(誠に申し訳ありませんでした)

 

考えれば、戦争が終わってさほど月日が経って

 

いたわけではなかったのだ。

 

お墓参りに行く北山墓地入り口の輪王寺側に

 

トンネル入り口のように防空壕が並んでいたが

 

七夕に沸く仙台で、空襲などがそう遠くない日

 

にあったとは、想像できなかった。


傷痍軍人の姿は、子どもの私に戦争の傷跡を

 

唯一見せるものだった。

 

私は白い衣姿が哀しげで、暗い気持ちになり

 

視界に入れないよう、通り過ぎようとした。

 

ギンギンギラギラ星の光に包まれた七夕まつり。

 

傷痍軍人は、暗い影の中に取り残されていた。

 

大人たちは、傷痍軍人の姿が見えていない

 

ように、通り過ぎて行く。

 

募金箱にお金を入れる人はいたのだろうか・・。

 

もしかして、戦争中の暗い記憶を思い起させる

 

傷痍軍人の姿が、

 

大人たちも怖かったのかもしれない。

 

こんにちは。

 

仙台っ子あるあるといえば・・

 

「今日7月7日は、七夕です。

 織姫と彦星が年に一度出会える日」

と聞いて

 

私も結構長い間、七夕は8月と思い込んでいた。

 

蝶の飛ぶ七夕飾り

【蝶が、自由に軽やかに舞うザインが素敵!

 くす玉も凝っているし、ラベンダー色が美しい。】

 

さて、材料の買い出しで美しい和紙の数々に

 

感激したのもつかの間、子どもの根気を養う

 

修行のとも言えるような、地味な作業が始まる。

 

くす玉を形作る花を、ひたすら折り続ける。

 

薄紙を5枚ほど重ねて2~3センチ幅で、表、裏、

 

表、裏と繰りかえして蛇腹折りにする。

 

終わりの端がきっちり合うと、うれしかった。

 

中心を、細い針金でキュキュッと留めて、

 

大きなダンボール箱に入れて集める。

 

店員さん、お手伝いさんはもちろん、

 

近所の子にも声掛けして、扇風機を回しながら、

 

スイカやトウモロコシのおやつで手伝ってもらう。

 

店番をしながら、花や鶴を折る姿が、中心商店街

 

でも見られた。

七夕の七つ飾り

七夕の七つ飾り

紙衣・巾着・屑籠・投網・折り鶴・吹き流し・短冊

 

ある時、店員のMちゃんが、蛇腹折りより簡単、

 

速い、画期的なお花紙の折り方を仕入れてきた。

 

重ねた薄紙の上に、両手指を乗せたら、

 

向こう端まで一気にクシュクシュっと進んで、

 

真ん中を針金で留める。

 

「すごい!」と飛びついたものの・・・

 

ほどなく元の蛇腹折りにもどった。

 

クシュクシュ方式では、お花の形がきれいにでき

 

ないようだった。

 

蛇腹折りの花の元がある程度溜まると、薄紙を

 

1枚ずつ互い違いに立てて、花の形にする。

 

咲かせた花は、竹籠の下から手を入れて、花の

 

針金をねじって付ける。

 

花の出来上がりは、薄紙を減らすと貧弱だ。

 

籠にはぎゅうぎゅう詰めに付けると、形が良い。

 

ケチすると、風に花の間が割れたりして

 

美しくないのだ。

 

スイカの七夕飾り

 

【昭和33年の我が家の七夕飾り

左端に、この年の新作?スイカの飾りが見える】

 

いよいよ8月6日、七夕初日!

 

現在、中心商店街では、七夕まつり期間中に、

 

竹を立てる専用の穴が設置されている。

 

そんな設備がない(今も)ので、毎年竹を立てて

 

固定するのは一苦労だった。

 

竹には前もって、くす玉などの飾りを下げている。

 

その重さにしなる竹を、立てなくてはならない。

 

世話好きな父は、ほかの店の竹を立てに回り

 

我が家の竹は後回しになるのがお決まりだった。

 

次々に空高く上がる近所の飾りを見ながら、

 

まだか、まだかと待っていた。

 

輪つなぎの飾り

【昭和34年の七夕飾り

なぜか輪つなぎの吹き流しや、飾りが多い。

この年、我が家ではブームだったのか?】

 

雨は最大の敵。

 

けれど、七夕にはなぜか雨が多かった。

 

今年の初日も、朝から雨音が聞こえたが、

 

「やっぱり~」と妙に納得をしていた私だった。

 

降り出せば、やっとこさ立てた長い竹を倒して、

 

急いで飾りを外す。

 

商店街の真似をして、初めて滑車を取り入れた

 

時は大騒ぎだった。

 

これで、にわか雨が降ったってへっちゃら!

 

と思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

 

するすると、滑車にかけた紐に下がった飾りが

 

降りてくるはずが・・・急降下!

 

吹流しは濡れた地面につくやら、滑車から

 

紐が外れてしまったり・・。

 

【町内の七夕飾り昭和35年か36年頃。

「仙台城址③青葉山の悲劇」

のクーペも、路上駐車しているではないか!

あちこちで路上駐車。

当時、うちも車庫スペースはなかった。】

 

6日、自分の家の七夕飾りが

 

あがったのを見て、実は・・・

 

毎年、私はかなりがっかりしていた。

 

部屋の中に陣取っていた、巨大なくす玉。

 

空に上がると、半分くらいにしぼんで見えた。

 

部屋の中では、大蛇のようにとぐろを巻いていた

 

吹き流しも、いざ空に上がる短くて、まばらだ。

 

とはいえ、自分が加わって作った飾りは大切で、

 

風で飛ばされ、ちぎれて落ちていないか、

 

雨に濡れないかと、七夕警察を勤めていた。

 

(重陽の節句もすぎでも・・まだ2回続く七夕)

こんにちは。

 

秋風が吹きだしたこの頃、なのにまだ七夕です。

 

コロナ禍後、仙台七夕まつりが再開された22年。

 

妹は、迷うことなく仙台七夕まつりに帰省した。

(私よりも、七夕愛が深かったようだ)

 

そして妹の第一声が「がっかり!」だった。

 

吹き流しが短かくて、優雅でもなんでもない。

 

くす玉とのバランスがすっかり変わって、貧弱だ。

 

以前は背の低い子どもでも、前を遮る吹き流しを

 

かき分け、かき分け進んでいた・・・。

 

それが仙台七夕まつりだったのに!

 

「そうだねえ」と言ったものの、

 

吹流しが以前の長さに戻るのは無理だろう。

 

コロナ禍前は、

 

手で触れて、顔にバンバン当たって(当てて?)

 

汗、唾、汚れも付着して(させて?)いたが、

 

それを、不衛生に思うこともなかったのが

 

今となっては、不思議なこと・・。

 

今年の七夕を見て、吹き流し帷に隠されない分

 

七夕飾りの全体像を見上げることが出来て

 

それが良かった。

 

以前は、吹き流しの長さを競っているような

 

そういえば、ビニール?やプラスチックテープ

 

の吹き流しが、急に多く現れた時もあったっけ。

 

歩きながら思い出していた。

 

和紙と違って、安価で切れにくく、色も派手で

 

流行ったらしい。

 

喫煙者も多かった時代、よく事故が起きなかった

 

なあ・・・。

 

こけしのかざり

 

結婚を機に父は堤通りに店を開いた。

1953年(S28)のことだ。

 

堤通には、生活に必要な物を扱う個人商店が

 

並んでいて、それぞれの店が七夕を飾った。

 

竹は七夕が近くなると配布されていたので

 

町内会で、「みんなで飾りましょう」みたいな

 

取り決めがあったのかもしれない。

 

中心商店街とは比べることが出来ない規模でも

 

それぞれの店の、正真正銘手作の飾りだった。

 

商いの合間に作るのは、結構大変だった。

 

他の土地から嫁いだ母は、突然作ることになり

 

七夕が近づくと、とても気が重かったという。

 

ネットで飾りの画像や、作り方等も見ることが

 

できる今とは違った。

 

大町七夕かざり

 

私の七夕まつりの最大の楽しみは、

 

なんといっても材料の買い出し!

 

父に連れられて、紙屋さんに行く。

 

店には、くす玉の芯になる竹で編まれた球体が

 

下がっている。超巨大な物から、大きさは種々。

 

そして、私の記憶では幾段にも仕切られた棚に

 

吹流しの幅の和紙が、色別に並べられていた。

 

ぼかしや模様の入ったものもあり、様々な種類。

 

くす玉に付ける花を作る薄紙は、今のように百均

 

で簡単に手に入る時代ではなくかったので、

 

薄紙の美しい色の数々に見とれた。

 

買いに行くまでに、今年のくす玉はこの配色で、

 

吹流しはあの色をと、絵にかいて家族で相談

 

していても、店内にあふれる色彩に圧倒され

 

迷うばかり・・。

 

大きな商店の飾りを作るのか、次々に来る客は

 

慣れたように種々の材料を大量に買っていく。

 

単純な色を考えていた私は、気後れした。

 

お店の人は、くす玉の大きさがこのぐらいなら、

 

お花にする薄紙はだいたい何束で、針金は何本

 

というように父に教えてくれた。

 

予算もあったのだろう。

 

父は、迷うことなく考えていた通りの色の薄紙と、

 

ごく単純な一色の吹き流しを買った。

 

たしか、階段の上では、受注した飾りを作って

 

いるようだった。

 

すでに大手の店などは紙屋に発注して制作して

 

もらっていたのだろう。

 

一番町の店で、それまで吹き流しに型染したり

 

凝った手作りをしていたが、ある年から業者に

 

頼んだそうだと聞いて「ずるいなあ」などと

 

子ども心に思ったりした。

 

七夕かざり

 

さて、紙屋は記憶では父の実家(新伝馬界隈)

 

から歩いて行って、確かあのあたり・・。

 

ブログは、「子どもの頃の記憶のままで」と思って

 

いたものの、突拍子もなく違っていたら・・。

 

なにより、本当に記憶通りなのか自分で知りたい

 

確かめたいの気持ちが抑えられなくなり・・。

 

Xに流れてきた情報で、風の時出版社が

 

「昭和40年の仙台・塩竈地図帖」

 

「昭和39年の仙台地図帳」を出していると知る。

 

本当は昭和35年あたりの地図が欲しかったが

 

39年と40年の2択・・。

 

1年でも古い方をと思ったが、4月仙台で実際に

 

開くと、手書き形式40年版が私には見やすい。

 

昭和40年の地図

 

 

しかーし、ずっしり重く、お値段も当然重い・・。

 

大量のアナログレコードの棚の前で「断捨離!」

 

と夫に訴えている年金生活者の私は、迷った。

 

その時はスーツケースに入る余裕なし!と

 

言い訳して帰ったが、結局7月の仙台で購入。

 

母と一緒に見て盛り上がればいい・・と。

 

というわけで、このへん?というあたりを探す。

 

古い地図

 

うーん、記憶とは反対側。

 

・・だけど、紙屋さんあり。

 

もっとも、その店だったかのか定かではない。

 

それでも、満足、満足。

(続きます)

こんにちは。

しばらく間があきました。

 

暑さが続いていたので、自覚なかったけど

なんと七夕終わってひと月過ぎるとこじゃん!

 

キッチンでは、常にラジオを流している私。

 

その日、とはいっても、6年前のこと。

 

ラジオパーソバリティーが、おっしゃいました。

ささっと、かる~く、しっかりと本音で。

「七夕は商業主義で、あまり好きじゃない」

 

(録音してはいなかったので、

言葉は正確にそのままでは無いかもですが

主旨は間違いない)

 

「はあ?!」

 
自分でもびっくりするくらい反応した。
 
「そんなこと言われたくないよ。
昔の仙台七夕を知らない人に・・」
 
私の昔は、昭和30年(1955)代のこと。
なのに偉そうに言って、申し訳ない。

 

番組パーソナリティーは、モンキーマジック

だったことははっきりと記憶している。

 

流れていた番組は

「MONKEY MAJIKのオンバク」

2014年4月~21年3月まで東北地方の

NHK:FMで放送。

東日本震災プロジェクトキャンペーンの一環で

仙台放送局制作番組。

私が聞いたのはおそらく、2019年の夏だった。

 

その時、私は即座に、勝手に決めた。

 

様々な思い出を、子どもの心に残してくれた

「仙台七夕まつり」

 

あのころの、あれこれを書こう。

ブログをはじめよう!

 

当時、どなた様のブログもろくに読んでないし、

誰のことも、フォローしてはいない。

 

突拍子もなく、勝手に心に誓ったが・・ほどなく

コロナ禍に突入

 

世の中がどうなっていくのか、見通せない日々。

 

生きるために優先しなくてはならないこと。

優先できないことの中に「祭り」があった。

 

家族に医療機関関係者がいたこともあり、

ピリピリ、ビクビクして過ごした日々。

 

その間、あのパーソナリティーの七夕発言は

・・「そりゃそうだわ」・・と思い直した。

 

私自身、七夕を見たい、誰かに見せたいとは

思わなくなっていた。

 

混んでいる七夕の期間は避けて、仙台帰省。

 

それは何故?

 

パーソナリティーが言ったように、

商店街のイベントをわざわざ見に行かなくても・・

と思うようになっていたのだ。

 

別に今年行かなくても、来年見られるし・・。

それが、そうではなくなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仙台七夕は感染拡大の影響をで2020年は中止。

2021年は七夕飾りの数を減らし、

2022年、新しいルールで、開催を再開。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私が仙台七夕に思い入れが強かったのは、

家族、店員さん、お手伝いさん、近所の子どもも

手伝って、時間をかけて七夕飾りを作ることで

七夕まつりは「自分事」だったからだろう。

 

おまつりに向け、

お飾りの配色を考えて、材料を選び、作り、

竹に飾り、雨が降れば取り込み、

わたしにとって「自分事」だった。

七夕飾りつけ

七夕

 

 (庭で飾りつけをする昭和33年の私と弟。

 結構長い竹に短冊をつけている)

 

仙台を離れ子育て介護、仕事に追われるうちに

七夕は「他人事」になっていった・・はずなのに

 

自分でも信じられないことに、

あのパーソナリティーのほんの一言で

「自分事」だった時がよみがえった。

 

七夕飾りを作ってみる会やイベントの

呼びかけを多く目にした。

(「復興折り鶴」プロジェクトは七夕を越えた

大きな意義があると実感したけれど)

 

こういう取り組みは、

仙台七夕が「自分事」となる小さな種になって、

仙台を離れても、いつか思いがけず

芽をだす・・ことがあるかも・・。

 

さて、あれこれ七夕まつりのことを話す以上、

「2025年 仙台七夕まつり」に身を置かねば!

今の七夕が見たい!

8月4日に仙台へ向かった。

駅はすっかり七夕仕様

七夕飾り

 

仙台駅の七夕飾り

 

 

そして昭和100年のこの夏、

河北新報紙で仙台七夕まつりの変遷を

 

出版社「風の時編集部」佐藤正美代表に聞く

(Xをフォローさせていただいている)

 

「やっぱりいいね 七夕さま」

特集紙面が組まれていた。(5日付)

 

昭和初期と昭和10年ごろの七夕まつりの写真。

特に10年の手作りの飾りの豪華さ!

 

白黒写真から熱気が伝わる人の波。

 

新伝馬町界隈育ち大正生まれの父が見ていた

まつりの風景はきっとこれね!

(続きます)