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仙台からの贈り物

仙台 あの日 あのころ そして今

こんにちは。

 

のろのろ進む仙台城シリーズ(?)。

最終④でようやく天守台にたどり着いた。

本丸跡全体を、「天守台に行く」と言ってきた。

 

家康に野心ありと疑念を持たれぬよう、政宗公は

天守閣を建てなかったとは知らず、長い間、仙台

平野を見渡す、そびえ立つ城を想像していた。

 

 

約50年ぶりの天守台・・ええっ?!

半世紀って・・時の経過の早さにただ驚く。

 

発掘調査で現れた礎石跡に新たな礎石を配置。

大広間の広さを実感できる施設等が造られて、

以前よりも狭くなった印象だ。

 

天守台

 

さて、かの有名な「伊達政宗公騎馬像」。

 

騎乗されている政宗公のお姿は、かっこいい!

お馬さんも・・・しかし当時はこんなスタイルの

良い馬はいなかったでしょう。

 

そして、そして、なぜかこの騎馬像を見上げて、

 

 今度は馬にまたがったんだ・・

 前よりも小さくなったな・・

 前の方がなんか堂々として立派だったな・・

 

などと思った・・という記憶がある。

前のってなに?なに?

またまた記憶違い?と不思議だった。

 

で、今回伊達政宗公騎馬像で検索したら

 

NHKアーカイブス放送文化資源

「シリーズ戦跡」「政宗に届いた赤紙」

 

2017年8月10日に放送された

NHK仙台放送局制作の番組が見つかり、

アーカイブで見ることができ、謎が解けた。

(ご存知の方も多いとは思いますが

興味のある方は、ぜひご覧ください。)

NHKアーカイブス

 

(以下、NHK放送をもとに書き、

 勝手ながら画像もお借りいたしました。)

 

政宗公没後300年を記念して制作された

「初代」騎馬像が完成したのは

昭和10年(1935年)

歓喜する市民に迎えられ、青葉山に設置された。

 

しかしその後の戦況悪化の中、市民に金属放出

を促すため、昭和19年(1944年)に

に政宗公像に「出陣」要請が届けられた。

 

NHK

 

(銅像に「出陣」のたすきを掛け、市民の万歳

で送らせるとは、なんと巧妙なプロパガンダ!)

 

終戦後、この像の胸から上が見つかり、現在は

仙臺緑彩館前に設置されている。

 

そして昭和28年(1953年)、新たな政宗像が建てられた。

これはセメントで作られた白い像だった。

 

アメリカ駐留軍の拠点があった青葉城なので、

戦争を連想させないよう、政宗公は鎧兜ではなく

裃姿で、扇子を手にしている姿にしたという。

 

平和像

 

(家康に疑念を持たれぬよう天守閣を造らず、

 今度はアメリカ等に誤解されぬよう、鎧兜を

    脱いだってことか・・)

 

「平和像」と呼ばれたそうだ。

(あえて「平和像」と名付けるとは!)

 

つまり、昭和29年生まれの私が見ていたのは、

この裃姿で立っているこの像だったのだ。

この平和像の政宗像だったのだ。

 

ドドーンと、なかなか恰幅がよろしいお姿だ。

そうだ、そうだ、この像に違いないと思う。

 

この像は、現在は宮城県大崎市の

青年政宗が居城した岩出山城址にある。

身長(?)4.65メートルほどあるらしい。

 

それから約10年後、初代像の復元に取り組み、

昭和39年(1964年)東京オリンピック開幕

の前日、現在の像が天守台に姿を現したそうだ。

 

私は小学校の引率で、県庁前で聖火ランナーに

小旗を振りに行った。

 

新たな政宗公の像が設置されたとなれば、

早速、父は私を連れて見に行ったに違いない。

 

私には平和像の政宗公のイメージがあり、

馬上の高い位置に変わった政宗公のお姿は

遠く、小さくなったように感じたのかもしれない。

 

政宗騎馬像

 

世界情勢に戦争の不安を感じる今。

「戦争を知らない子どもたちさあ~」

若い時、能天気に、笑顔で歌っていたことが、

戦後80年の今になって、恥ずかしくて仕方ない。

 

戦中、政宗公の像は解体され、

戦後は裃姿で「平和の像」と名乗らざるを得ない

時代があったことを覚えていたい。

 

仙台城址③ 青葉山の悲劇

 

七夕が過ぎ、風は秋へと向かい吹き始めた頃でしょうか。

こんにちは。

お盆、終戦の日を迎え、生前の父たちから聞いた戦争や

仙台大空襲時のことも書きたいと思っているのですが・・。

 

まずは途中になっている「仙台城址」③

 

我が家に、自動車がやってきたのは昭和37年。

 

現在、運転している車種名ですら、すんなり出ないほど

車に疎い私だけれど、その名は「クーペ」!

 

2020年マツダ創立100周年サイトにクーペの画像があり、

小さくて、かわいい、今見てもおしゃれ。

昭和35年東洋工業(現:マツダ)から発売されて、

その年の累計生産台数は2万3千台越え。

(この数字は画期的に多いらしい。)

 

話は変わるが、義父母の遺品整理で、特に心が重かった

のが大量の写真の処分。

幸い実家の母は、かなり前から写真の断捨離を始め、

何段階かの断捨離ステージを越え、

集約したアルバムをわずかに残すだけ。

 

遺品整理のトラウマから古い写真は1枚もいらない!

と言い張っていた私。

まさかのブログスタートで、ああ、残しとけばよかった

と思う日が来るとは・・。

 

クーペの画像をマツダさんから頂くわけにもいかず、

諦めていたが、実家のアルバムに小さい写真見~つけ!

クーペ

 

この車の後部座席に、母と私と弟の3人が乗って、

(乗れたのが不思議)

晴れがましい気持ちで、記念すべき初ドライブへ出かけた。

行き先は、青葉山! 天守台!

 

シートベルトなんてない時代だった。

父は、足を突っ張り、急ブレーキに備えるよういつも

口うるさく言っていた。

 

皆が自家用車を持っているという時代ではなかったと思う。

 

まさに地を這うように登るクーペの中を、

(初詣に向かう人たちだろうか)興味津々のぞき込む。

 

その視線に、晴れがましい、自慢したい気持ちは消えた。

とにかく速く!早く!通り過ぎたい!

 

が、クーペは歩く人よりも遅く、坂を進んでいった。

 

のろのろが加速?して、

父が何か言って、険悪な感じになったことは覚えている。

 

そして、ついにクーペは坂の途中で、止まった。

 

注目の中、後部座席の私たちは車から降りて歩いた。

 

あまりにも恥ずかしすぎた。

クーペが登れなかったということよりも

得意げに乗っていたことが・・だろう。

 

青葉山、天守台といえば、

このことを思い出さずにはいられない。

 

おだずなよ・・。(自分へ)

 

青葉城への坂

 

 

青葉城石垣

残念ながら3月末には、クーペが登れなかった

坂を歩くことはできませんでした。

こんにちは。 

 

五色沼の件で改めて思う。

子どもの頃の記憶は

その時々の私の目線、思考、感情等々で

出来ている。

 

「なんたる事実誤認!」と怒りを招くほどの

エピソードは無いとは思いますが、

「そうかな?」「ちょっと違わない?」

程度はあるかもで、その場合はお許しを。

 

 

青葉山公園案内図

 

さて、私は「仙台城」と呼んだことはなかった。

多分、私だけではないと思う。

 

青葉山にある「青葉城」。

「青葉城」という響き、なんて魅力的なこと!

 

「仙台城」では、杜の都の色彩が

一気に褪せてしまう・・。

 

七夕の街に定番で流れるおなじみの大ヒット曲

「青葉城恋唄」。

 

もしもタイトルが「仙台城~」だったら、

湿っぽい、ご当地ソングのイメージに。


亡くなった父は新伝馬町界隈育ちの仙台っ子。

 

ことに青葉城の名がふさわしい季節には

父に連れられて青葉城跡に出かけた。

 

旧進駐軍兵営地だったという青葉山のふもと。

 

緑豊かな木立の中、白いペンキ塗りの家が

ポツポツと残っていた。

 

もしかして進駐軍関係住宅の残りだったのか?

戦争も含めてその経緯を知らない子どもだったが

「シンチューグン」というワードは、時折耳にした。

 

その風景はTVの「名犬ラッシー」か何かで見る、

海外のようで憧れの目で眺めていた。


いよいよ、青葉山の坂を上って・・

 

青葉山坂

 

いざ、天守台へ!!

のつもりだったが、なんと通行止めだった。

仙台城石垣修復

 

東日本大震災の時には崩れなかった石垣。

令和3年・4年の地震では被災し、

石垣の積み直しの工事になった。

 

工事は続いていたのだ。

 

そして、Xに仙台市文化財課広報課からの

お知らせが流れてきた。

 

「8月1日15時より通行開始」

 

青葉山ルート

 

3月には、博物館から迂回して登らなくては

てはならなかった。

 

博物館から本丸へ

初めて歩くルートだ。整備されている。

案内板

これも興味深い。

造酒屋敷跡案内板

そして、手ごろに登れそうな石垣・・!

ここの石垣ではないとは思うが・・そして

今なら、と~んでもないことだが・・・

雑草がボーボー生えた石垣の上に咲いていた

オレンジ色の百合の花(?)を摘んだこともある。

石垣の上で遊んでいる子たちもいた。

誠に誠に、申し訳ありません。

石垣

 

はじめまして。

 

「仙台城址跡」を初投稿に・・

と、出かけたのは3月末。
 

けれど初ブログは、私にはハードルが高く、

足踏みする間に、多々様々、起こる家族の問題。

 

そして、今や仙台七夕カウントダウン時期に!

こうなれば、来年3月スタートするしかないか・・。

 

しかーし!来春のことなんて分からない高齢者。

今日より若い日はない!

と、季節外れの画像も気にせずはじめます。

 

国際センター駅

 

地下鉄東西線、「国際センター駅」で下車。

おお!これが例のモニュメント。

荒川静香様 羽生結弦様が描かれている

氷を思わせる透明板が素敵です。

 

毎春復興アイスショーに仙台を訪れる友人が

「貴女には、今更でしょうが・・」

と写メを送ってくれたことがありました。

 

でも、いつも余裕のない帰省をしている私は

「今更どころか」初見。

地下鉄東西線にすら、なんと今回初乗り!

 

身近だったフィギアスケートのことはあとにして

 

さて、さて、立ち止まり、あたりを見渡す。

 

青葉山方向表示

 

ここは何処?状態から徐々に覚醒・・。

 

特徴的だった屋根の県スポーツセンター。

建っていたのはこのあたりらしい。

演奏会に連れていかれた川内記念講堂は、

あちら、坂の上の方?

 

向こうには博物館があったはず。

光る水面が見えて、とりあえず横断する。

 

「えっ!これが五色沼?」

 

五色沼

 

踏み込んだら、ずぶりずぶりと深みにはまる。

「沼は危険!」

が刷り込まれていたからなのか、

記憶の中の五色沼は、木々と雑草に埋もれて

薄暗く濁っている。

 

それが、なんと、この澄んだ水面!!

 

肌寒い日だったのですが、よく晴れていて、

 

水面に映る空が、雲が、木々が素晴らしい!

 

まさかの五色沼の美しさに驚くばかり。

 

絵を描かれている方・・。

 

同年代とお見受けして、つい、話しかけてしまう。

 

五色沼を描かれる方

 

五色沼の風景を、よく描いていらっしゃるという。

 

絵筆を止めて話に付き合っていただき、

写真を撮らせていただき、有難うございます。

 

本当に素敵な絵です。

 

絵を描く楽しさ、喜びがある方がうらやましい。

 

そして、本当に今更ですが・・知りました。

 

「五色沼は沼ではない!」

 

仙台城をめぐる堀の一部で、三の丸北面の堀が

「五色沼」。

 

「五色沼」は「堀」だったのでした。

 

風の冷たい日でしたが、とびっきり美しい

「湖面」ではなく「沼面」でもない「堀面」!

 

季節外れも甚だしい画像ですが、

美しい五色沼に感謝して、ブログスタートです。