ヒトラー暗殺の試みが失敗に終わったことは皆さんもご存じだと思う。
ナチス時代で成功した暗殺はたったの一件で、それもナチス・ナンバー3(ヒトラー、ヒムラーにつぐという意味で)の男。その残忍さから親衛隊の部下からは「金髪の野獣」とあだ名され、「プラハの屠殺人」とも呼ばれ、トーマス・マンには「ヒトラーの絞首人」と名指しされた男。
(フルネーム:Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904- 1942年)
ここ数年、ナチス時代の関連書籍、映画、企画展が多く、追いつかないほどである。
最初の大きな波は冷戦後だった。つまりロシアにある資料などの閲覧が可能になって、夥しい量の新情報が出てきた。出版、ドキュメンタリー映画ラッシュがあって、それから20年、歴史を見る目はより客観的により成熟さを増したように思う。
数多くの歴史的事件の中で今「エンスラポイド作戦:Operation Anthropoid」に光が当たっているのもおもしろい。コードネーム「エンスラポイド(=類人猿)作戦」は、当時、ナチス・ドイツの保護領だったベーメン・メーレン(現在のチェコ共和国)を統治するハイドリヒの暗殺作戦である。
ハイドリヒがどんな人物か短くまとめる。
ナチス内部でメキメキと頭角を現し、政治警察組織に君臨するに至った男。親衛隊ではハインリヒ・ヒムラーに次ぐ。そしてゲシュタポ(国家秘密警察)、親衛隊保安部(SD)、国家保安本部(RSHA)、それら全ての長官であり、その能力の高さと絶大な権限から組織内部でも、国防軍からも恐れられていた。
反ナチの人間を「除去」し、ユダヤ人絶滅政策を推し進めた人物で、アイヒマンは部下の一人である。
この男の危険性を重く見た大英帝国政府と、チェコスロバキア亡命政府は暗殺を計画する。特殊作戦執行部( SOE)などで訓練し、選抜された7人のチェコ人部隊をパラシュートでチェコ内に降下させた(1941年12月28日)。
中心となったのは
左:ヤン・クビシュ(Jan Kubiš)チェコ人
右:ヨゼフ・ガプチーク(Jozef Gabčík)スロバキア人
ハイドリヒはプラハ郊外の住居から車で執務室(プラハ城)に通っていた。ガプチークとクビシュは朝10時半頃、通りで待ち伏せし、爆弾を投げつけた(1942年5月27日 ).
ハイドリヒは病院にかつぎこまれたが、数日後に死亡。
ハイドリヒ暗殺者の逮捕
暗殺の実行者は、プラハの二つの家族にかくまわれ、後にプラハにある正教会の大聖堂、聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂に隠れた。聖ツィリルと聖メトデイに捧げられたものであった。ゲシュタポは、(サボタージュを目標としたグループ「アウトディスタンス」の)チュルダが100万ライヒスマルクの報奨金目当てにチームのその地の接触先を密告するまで、暗殺者たちを発見できなかった。
カレル・チュルダ(Karel Čurda)は、ジズコフ(Zizkov)のモラヴェック家の家族を含む、インドラ(Jindra)のグループに提供されたセーフハウスを密告した。6月17日午前5時、モラヴェック家の住まいがゲシュタポの手入れを受けた。家族はゲシュタポがアパートを捜索する間廊下に立たされていたが、モラヴェック夫人はトイレに行く許可を受け、青酸カプセルで自殺した。夫は家族のレジスタンスとの関係を知らなかったが、息子のアタと共にペケック・パラク(Pecek Palac)に連れて行かれた。ここでアタは一日中拷問にあった。彼はブランデーで酔わされ、水槽に入った母親の切断された首を見せられた。最終的に、アタ・モラヴィックはゲシュタポに彼が知っていることを全て自供した。SSは教会を包囲したが、700人以上のナチスの部隊が作戦を行ったにもかかわらず、ナチスは降下兵を生きたまま捕らえることができなかった。ハイドリッヒを殺したクビシュを含めた3人は、銃撃戦の末に大聖堂で殺害された。ガプチークを含んだ4人は、捕虜になるのを避けるため地下室で自殺した。
チュルダはドイツの偽名とドイツ人妻を得たが、戦後の1947年、自殺に失敗してナチス協力の罪で処刑された。
その後、ハイドリヒ暗殺計画「エンスラポイド作戦」の映画が作られたその内の一つに「ハイドリヒを撃て!ナチの野獣、暗殺作戦」がある
主演の二人の暗殺者には「麦の穂をゆらす風」のキリアン・マーフィーと「フィフティ・シェイズ・ダーカー」のジェイミー・ドーナンが扮している。共演は「奇蹟がくれた数式」のトビー・ジョーンズ、「ザ・ウォーク」のシャーロット・ルボンら。監督は「ブロークン」のショーン・エリスで、彼にとっては15年越しの企画だった。
Nocturne in C-sharp minor, Op. posth. (Chopin)
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