今回は呟きです。

自分だけが読んでいて楽しいブログです。

中学のときにモヤモヤしていた思いに大人のジュデイが答えを出してあげました。

 

こんな内容にもかかわらず、

前回ブログでブロ友さん皆さんから暖かいコメントを頂き感謝です。

前回から数時間後に投稿する予定でしたが、加筆修正をかけてアップします。

今回も長いしくどくどとすみません。

 

私が一番生きづらかった中学の頃知ったクラシックの曲のことです。

 

曲の紹介は前回ブログに書いています。

  

 

 

 

ピアノを弾いていて思い出したことです。

音楽ネタですが、ここは毒親関連のことを書きます。

 

シューベルト「魔王」

登場人物は(ナレーション、父、息子、魔王)。

日本での楽曲解説によると・・

「嵐の夜に父は重病の息子を抱えて帰路についている。魔王(黄泉の王)が息子に誘いをかける。

息子は魔王に黄泉の国に連れていかれる。父が家にたどり着いたときには息子は息絶えていた」

 

  けれども私はこの解釈はずっとずっと何か大事なことを隠しているような思いがしてしっくりこなかったんです。

友人が演奏し、私も最近シューベルトの作品のひとつを練習するようになって下の動画を観ました。

この動画は以前にも観たことがあります。

 

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星この解説をされている車田さんは元音楽の先生でしたが、

今はオペラ歌手として活躍されていてドイツに在住されています。 

 

 

 

 最初はタイトル裏話から入ります。

 

5分14秒~8分16秒くらいまで: 

ドイツ語での歌詞朗読。

和訳が記載されているので意味はこちらを参照されてね。

(私はドイツ語を習いましたが、

意味わからないし、

もう読めないので日本語をみました)

 

8分30秒くらい:楽曲の解釈①から④までピックアップされています。

        順を追って書きます。

 

まずは①日本での解釈「魔王=黄泉の国」です。

この解釈に関しては奥歯にモノが挟まった、何か大事な物を隠蔽があるんじゃないか、怪しい思いがしました。

 

魔王に襲われた息子は「助けて!」と阿鼻叫喚して息絶えます。

でも息を引き取る間際で叫ぶなんて、作り物のドラマそのものじゃないですか。

本当に息を引き取るならば話す気力もなく、

ぐったりしてしまいますよね。

 

②10分8秒: 虐待説。

魔王は幼児虐待の加害者で息子は被害者である。

 

なんだかジャ〇ーズ事件を思い出させました。

魔王は息子を抱えて必死に帰路につこうとしている父とは対照的に蜜のような口調と言葉で囁いています。

車田さんは11分47秒で「おまえが言うことを聞かないなら力づくだ!」に触れておられます。

 

ここで車田さんの解説

「詩は形式として現在形を取るところが最後の文だけ過去形になっている。これはあり得ない」

英語で言うところの現在完了形と言うところですかね。。

そして

「子供は息を引き取ったのではない。

暴力を振るわれて❞ピュアな子供の状態❞を失ったのだ」とあります。

 

ここで私の解釈を加えます。

この楽曲には母的なもの(愛着ある存在)が登場してないんです。

魔王は父の状態を知っていながら、甘い餌で子供を釣ろうとしていますよね。

子供はそれは苦しいはず。。

ここらへんでこの曲は毒親の香りがしてくるし、

保護を与えられなかった息子の虚しさと私自身が重なるように思えました。

 

③15分20秒くらい:父は傍観者。

状態を知っていながら見て見ぬふりをする大人。

 

中2でこの曲を聴いたときは、クールに「こどもは大人には見えない妖精が見えるというから

父には魔王は見えないよね」と思ってました。

 

この見て見ぬふり楽観的にふるまおうとする雰囲気は私の毒父そのものです。

 

大人になった今思うことは

なぜ病気のこどもを抱えてわざわざ嵐の夜に出発しないといけないの?

医者に見せられなかったの?

お母さんは「そんな日にこどもを動かしたら大変」と言わなかったの?

色々事情があったのかもしれないけれども、この曲(詩)中にはお母さんの色彩が全くない。。愛着ある存在がいない→毒環境

 

お父さんは見て見ぬふりをしていたのか、

自分も余裕がなかったのか両方だろうけども、

 

そこを魔王は上手についてきて息子を誘っている。

世の悪い大人はそこんところ巧妙ですよね。

 

愛着ある育ちをしていたら、その誘いは真実か甘い衣をまとったまやかしか

理解できていただろうけども、

願っても得られなかったときは、生きるために一時期な甘い蜜を吸いたくなるだろう。

愛着障害はそんな危険なはざまで生きていることを思い知らされました。

 

お父さんがもっと我が子に寄り添ってあげていれば、息子は助かったかもしれない。

 

そして別の動画でも言っていましたが、

この歌曲は「父&息子」「息子&魔王」の対話はありますが、

この楽曲には父と魔王の対峙の場面がありません。

お父さんは曲の中で魔王と闘ってないんです!

 

馬を急がせる場面で闘っていることになるんでしょうけども、

「あれは古い柳が風にゆれてるだけだ」と誰でもわかるようなこと言うよりも

「怖いね。柳がゆれてまるで魔物がいるみたいだよね。

お父さんは〇をあったかいおうちに連れて帰るよう

急いでるよ」と言ってあげたらよかったのに。。

実際私もインチャイが渋滞にまきこまれてご機嫌斜めのときはそう声掛けしてます。

 

16分19秒 まとめ

 

④16分40秒 別バーションとお断りのうえで「魔王は父の別の顔。虐待したのは父。」という見解

      

 

ここから先は私の解釈です。

父は息子の苦悩に耳を傾けていない。

息子はお父さんには自分サイドに立って闘って寄り添ってほしかったはず。

 

前回のブロ友さんのコメントで私も忘れていた部分を思い出しました。

ブロ友さんのコメントに呼応して新たに加筆します。

 

魔王は父から救い出そうとする、

いいひとなんじゃないかと中2の私は思いました。

これを表現すると「あなたズレてる」と言われるのが火を見るよりも明らかだったので言いませんでした。

苦しんでいるのは父から痛めつけられた結果である。

でも子どもにとって父は唯一の人間だから信じていたい。

そんな葛藤を感じます。

 

ここの魔王はそれを知ってて、

子どもを救いたいのか利用したいのかわからないけど、

「こっちにおいで」と誘う魔王は子どもにとって魅力にうつったはず。

でも異星人だから信じていいのかわからない。

 

暖かいものをくれそうだけど異星人の魔王と、

子どもに対して「気にするな」と同じ言語世界に属していても心は寄り添ってくれないお父さんのどちらを信じる?

 

その狭間で子供として生きていけなくなった。

 

これはそのまんま私自身でもありました。

 

この見解からすると、父は自分自身に潜むジェラシー(虐待しようとする心若い芽を搾取しようとする心)を直視したくなくて馬を走らせた。

 

それとは別に天上の無意識の存在として魔王が登場する。

 

醜い部分をあえて言えば、私も将来のある我が子にはジェラシーはあります。

でも娘は娘、私は私として境界を築こうとなんとか生きています。

毒親は私に対して自分の感情をごちゃまぜにして接してきましたから。

 

この曲は私にもある「狂気とジェラシー」を表してるような、そんな思いがしました。

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この曲は、一人の歌手がすべての役を演じるというある意味ごちゃまぜなところがあるので、

私も色々ごちゃまぜな思いを抱えていました。

 

40年以上抱えていた問いにやっと答えが出せてほっとしています。

私は解毒できてきたんだな・・

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そして

ピアノ愛が怪しい私ですが、

こんな私にも声をかけてくださる人が意外に多くて、

「レッスン行ってるかどうかは問題じゃないです」と皆さん言ってくださるので気を良くしています。

それもセミプロ並に上手な方々ばかりです。

嬉しいです。

 

音楽鑑賞と言えば、耳当たりが良い曲か活力を貰える曲がメインですよね。

でもこの不穏な曲を知ったことで逆に生き延びることができたのかもと今になって思います。

 

私はこの曲には今でも到底腕が届かないけれど、

逆にそのことでピアノを頑張れたかもと思いました。

好きなものを好きだと言えない。

周りに合わせて好みを合わせることって、

自分ではない誰かを装っているようで不快でした。

 

最近のことですが、

ブロ友さんが触れておられた「母性」を借りました。ドキドキしてます。

 

いつもありがとうございます。

 

私の心の中だけで誰かへの批判はありません。

コメントは無理されないでくださいね。