祭司とレビ人たちは、その銀、金、器類を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために、量って、受け取った。
私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。
四日目に銀と金と器類が、私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがおり、彼らとともにレビ人であるヨシュアの子エホザバデと、ビヌイの子ノアデヤがいた。
全部が数えられ、量られた。そのとき、全重量が書き留められた。
捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のいけにえをささげた。すなわち、イスラエル全体のために雄牛十二頭、雄羊九十六頭、子羊七十七頭、罪のためのいけにえとして雄やぎ十二頭をささげた。これはすべて主への全焼のいけにえであった。
それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちと、川向こうの総督たちに渡した。この人たちは、この民と神の宮とに援助を与えた。
ごぶさたしています、今日はここを見ていこうと思います たとえで
祭司とレビ人たちは、その銀、金、器類を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために、量って、受け取った。
エズラ記ネヘミヤ記など 一回エルサレムが壊滅しそうになった後、その後正しい礼拝が回復される運動がある ということがわかります、エルサレムは今でいうと神の神殿 つまり教会を指していて、敵の攻撃を受けボロボロになったエルサレムがあり、その後正しい礼拝、正しい基盤、正しい秩序の回復の運動があるということがわかります。
たとえば士師記もそうであり、士師が出てきて正しい秩序が戻り、そのあと民は堕落し、その後士師が出てくる ということの繰り返しです。
旧約を見るならば、荒野の40年間を思い起こすこともできます。
祭司とレビ人たちは、その銀、金、器類を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために、量って、受け取った。
神の宮に持っていくために量って受け取る 今回の箇所は 量る 量を数える ということがポイントになっています。
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
陶器職人の箇所も参照にしていただけるとわかりますが、器はクリスチャンにたとえられています
どこに持っていくのだろうか? 神の宮に持っていくのです。なかでは偶像(アイドル)が安置されている場所もありその人のために持っていく教会もあるようですが、神にお捧げするのです
私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。
もちろん反対する人たちもいるのですが、神により成功することが見て取れます。
四日目に銀と金と器類が、私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがおり、彼らとともにレビ人であるヨシュアの子エホザバデと、ビヌイの子ノアデヤがいた。
ここでも 量られ とあり、残りのものが少なくなっているのがわかります。
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
この箇所からでもそのことがわかります
聖霊のバプテスマなんて言って人を後ろに倒しているが、実は「獣のしるし」と同じ霊現象だったりと 後で恥に変わります。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
全部が数えられ、量られた。そのとき、全重量が書き留められた。
後から書き入れてほしい、後から持ってきた 遅いです なぜなら
全部が数えられ、量られた。そのとき、全重量が書き留められた。
からです、花婿が出てきたときの愚かな乙女のようにならないで、書き留められるときに向けて身支度をしておくのです。
捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のいけにえをささげた。すなわち、イスラエル全体のために雄牛十二頭、雄羊九十六頭、子羊七十七頭、罪のためのいけにえとして雄やぎ十二頭をささげた。これはすべて主への全焼のいけにえであった。
ここで、主への全焼のいけにえ であることが書かれています、当然といえば当然なのになぜだろう? 終末においては(バアル主人という意味)にいけにえをささげるようなことがおきてくるし、おきています。
また偶像(アイドル)にささげるために自らをささげるようなことが起こっています けれども我々は 主への全焼のいけにえ をささげましょう。(もちろん霊的にですよ)
それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちと、川向こうの総督たちに渡した。この人たちは、この民と神の宮とに援助を与えた。
教会をあるべき姿に戻す、回復する、修復する それに賛同してくれる人々もいるわけです、我々も元に戻し 主の御心のあるべき礼拝を回復していきましょう。