たとえば呼吸もそうで、当たり前だからそんなに気にしません けれど風邪などで呼吸のありがたさがわかってくるのです。
歩く事、目で見ること、聞く事 それらもこの部類に入るのではないでしょうか
そして 「話」 これも当たり前のようであるが、しかし家族が少なかったり一人で居ると 当たり前の活動である「話」がとても貴重である、恵みである、そういう風に感じれるものです。
しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。
そして聖書では神様と神の民との間での「話」これがなされている事を見るわけです、これも余り評価されていないような感じ、恵みとして受けていないような感じがしましたので書いておこうと思います。
聖書を読んだり、お祈りをささげたり など、色々と神様との会話 ができるのも我々側の力ではなく、神様からの愛の故である事を思うのです。
世の中でも誰と親しく話すのかで、その人間の思考、考え、行動そういうものに大きな影響を受ける、と見ています、そういう経験ございませんか。
しかしながら神様との交わり、話の中でどんどんイエスキリストとの親しみ会話を増やしてどんどん変えられていきましょう。
マタイによる福音書:13:35
それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
そしてたとえがあります、実際起こった事を「たとえ・比喩」の意味合いが隠されているのです。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
みな同じ御霊の食べ物を食べ、
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
新約の初めから終わり もう既に聖書には預言されています。
エレミヤの部屋では聖書のたとえの理解がとても深いのでご覧下さい(最初から)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
キリストと同じかたちに変えられていく上でどうしても「たとえ」の理解、つまり覆いを取り除くことがないといけないようです。
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。