マタイによる福音書 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
今回はここの聖書箇所を見て行こうと思います「たとえ」で
まず、糧とは何だろう 異邦人でも日々の糧を望んでいるではないか?世からキリストに購われ、引き出され、ご自分の民とされた宝の民クリスチャン、奴隷ではなくキリストにある自由のクリスチャン
勿論 霊的なことがこの箇所にも含まれて居ます。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
つまり聖書の事です。
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
教会で聖書の朗読を聞き食べます しかしながら、何を食べ糧にするのかが大きなポイントです。(世でもそうですね)
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
つまり
あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
↑クリスチャンがパンを食べたあと、悪霊の食卓につき、別の霊的な糧を食べる事が書かれていると見ています、
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
つまり こういうクリスチャンが出てくることに対する警告であり それに関連し信仰から離れる事への警告でもあります。
つまり こう書かれている通りです。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
そんな動画を集めて見ました
http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
ではどうするのか?結論から書けば聖書のみを読む!(他の本ではなく)どの頻度でか?そこを見て行こうと思います。
マタイによる福音書 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
これが答えです、「毎日パンを食べる!」「つまり、毎日聖書を読む!糧にする!」これに尽きます、三日に一回糧を下さいとか 一週間に一回糧を下さいでは無いのです、日ごとの糧を神様が下さるようにお祈りをして、実際 聖書を毎日読みましょう!それが解れば旧約のパンの箇所も、世の終わりのクリスチャンへの預言として理解できますよね。
私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。
自分の事ばかり考えないで兄弟姉妹のことも考え、パンを裂いて食べやすくして与えてください。