神様は、能力の高い人よりも、弱者に優しい人をより愛される。 | yasunoriのブログ

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まあるく、優しくをめざします。アトピーと統合失調症、イエスさまと共に生きています。支えてくださる皆さまに感謝です。God bless you^-^*

神様は、能力の高い人よりも、弱者(弱くされた方々)に優しい人のほうを、より高く上げられます。たとえこの世でそうなっていなくとも、死後の世界ではきっとそのようになっているでしょう。


聖書には、このような一節があります。


“25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。”新約聖書、マタイによる福音書25章37-40節。口語訳聖書:(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1954,1955


聖書からの引用終わり。


聖書によると、貧しい人への施しは、神様への施しと言われています。


時間のない方は、ここまで読んでいただければ充分です。


聖書やキリスト教では、決して、貧しい人は、自業自得や努力不足でそうなったのではない、と考え、自己責任論を採用しません。事実、少し学んでいくと、世界人口の約15パーセントは障がい者でありますし(国連広報センターより)、どんなに努力しても、働けるまでに治らない(治せない)病もこの世には沢山あることが分かります。だから、わたしたちは無条件の助け合いが必要なのです。

中途障がいもありますし、自分の子どもや孫が重度障がいを抱えて生まれてくることもありますから、今元気な人も、明日はわが身なのです。治せない病や障がいを負っても、安心して生きられる社会や社会の仕組みづくりが大切です。


キリスト教では、世界や自己の捉え方を、自己完結で捉えずに、人との繋がりを大切にして、地球家族の考え方で、助け合いの、開かれた考え方をします。


このあたりは、全うな仏教でも同じ考え方をするところがありますが、自分ひとりが幸せであったとしても、あるいは自分の家族だけが幸せであったとしても、今同じ世界に、貧しくて、苦しくて泣いている人があれば、すべての人が幸せになるまで、その最後の一人の方が幸せになるまで、わたしたちはできることを続けていく、手を差しのべていく必要があるのです。


(100匹の羊のうち、99匹がいても、たとえ1匹の羊がいなくなったら、神様はその一匹の羊を諦めることはありません。新約聖書、ルカによる福音書15章、およびマタイによる福音書18章を参照。)


仮に、その人の苦しみが、その人自身による部分があったとしても、キリスト教では、だからあなたのことは知らないよ、とは言えない、言わないわけです。


考えてみれば、努力できる健康やエネルギー、時間や環境さえも、わたしたちは神様から与えられたものです。人間らしい振る舞いも、誰かから教えていただいたものです。努力は大切ですが、けれどもわたしたちは自分の努力によって救われた、と考えてしまうならば、それは自分の努力を神様とする偶像崇拝になってしまい、その傲慢を真の神様は哀しまれることでしょう。

この世界には、病や障がいなどで、がんばりたくても、どうしてもがんばれない状態になる病や障がいも沢山あるものです。けれども、そのような方々も救われるのです。


神様の思い描かれる、わたしたち人間の魂の救いのハードルというのは、きっとわたしたちが思っているよりも、ずっと低いのかもしれません。


わたしたち人間が、その救いのハードルを勝手に上げて、誰かを置いてきぼりにするなら、それは神様は哀しまれることかもしれません。


イエスさまは、わたしたちの罪の身代わりとなって十字架刑を受けられ、お亡くなりになり、そしてご復活されました。

わたしたちはきっと、神様と出逢い、あるいは内なる良心と出逢い、また人との繋がりのなかで、信仰によって救われるのでしょう。

聖書によると、神は愛(新約聖書、ヨハネの第一の手紙4章8節より、口語訳)です。

わたしたちは、創造主である神様のもとに帰っていけばいいのです。

治らない病があっても魂は救われますし、

弱いままで救われますし、(むしろ弱さは大切です)、

死の間際でも、きっと、たった一念で魂は救われるでしょう。

それらを本質的な別の言葉で言い換えるなら、わたしたちは特定の宗教に属していなくても、きっと、弱者に優しく在ることで救われるのでしょう。何もあげるものがなくても、わたしたちは弱者を差別偏見しないで、そっと理解し、優しく受け入れる心を持つだけでも、その方への、また神様への、施しになるでしょう。また、最期の一念も、神仏を信じます、ではなくても、誰かに、『ごめんなさいね、ありがとうね。』あるいは、『愛しています』の一念でも、きっと神様は喜ばれるでしょう。


この地上の世界も、皆が無条件で分かち合えば、皆が足りるようにできています。

実際に現在の地球でも、北欧の国々や、ヒマラヤの高地の民族などで、そのように暮らしている共同体が複数あります。

わたしたちは、利己の心以上に、利他の心が大切です。

自分の取り分が少し少なくなっても、皆が少しずつ無条件で分かち合い、それで共同体の全員が助かるなら、それは大変にうれしいことです。


僕自身は、無条件に少しずつ分かち合い、自分の生活水準を少し下げてでも、全員が助かる道を選びます。わたしたちがほんの少し差し出すお金や物や心、あるいは人や命でさえも、すべては、神様からいただいたものなのかもしれません。それらは取り上げられるのではなくて、神様にお返しするのかもしれません。


神様はきっと、皆が無条件で助け合い、地上にも小さな天国をもたらしてほしい、と願っておられるのかもしれません。わたしたちは全員が天国に行くのかもしれませんが、地上で少しでもそのような無条件の分かち合いの心、弱者に優しい心を持っておられた方は、きっと天国ではより高い天に、より高い役割に招かれるのでしょう。