あなたの内にも愛がある。 | yasunoriのブログ

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まあるく、優しくをめざします。アトピーと統合失調症、イエスさまと共に生きています。支えてくださる皆さまに感謝です。God bless you^-^*

人間と神の愛について。

 

現在のプロテスタントでは、自分の内には、人間の内には、神の愛はないと考えるところが多いです。

 

カトリックでは、信じる人の内にも、信じない人の内にも、一人ひとりの内にも神様やイエスさまがおられ、人間の内にも神の愛が現れ得ると考えます。

 

また、それは自信の持ち方にも影響します。プロテスタントの場合、自分の内には神の愛を認めず、外に外に求めていく人が多いです。その場合、自分は信じられないけれど、自分の外のイエスさまを信じている自分をも信じる、という形になります。

 

カトリックでは、一人ひとりの内に神様、イエスさまがおられると考えるため、イエスさまがおられる自分をも信じる、自分の中のイエスさまを選択する。間違いや失敗など、色々なことがあったとしても、たとえ自分のなかに色々な声、心があったとしても、それでも、自分の内のどこかにイエスさまが消えずに生きておられる、そしてその声が自分のなかに在り続ける自分を信じる、という感じになるでしょうか…。

 

そして、プロテスタントでは、人を信じず、神のみを信じるところが多いです。カトリックでは、誰の中にも神様、イエスさまはおられるのだから、たとえ不完全だとしても、神様だけでなく、人をも信じ、大切にする、という考え方になります。


どちらが正しいというよりも、わたしたちは人それぞれで、自分にしっくりくるほうを選んでいいのです。

 

関連する聖書のみことばを考えてみますと、プロテスタントの視点からみると、新約聖書の福音書で描かれるペトロの否認(イエスを三度知らないと言う)、また、ヨハネ福音書の最後のペトロとイエスのやり取りが強調されているとも言えます。ギリシャ語聖書のヨハネ福音書の最後で、イエスはペトロに、最初の2回は「アガパオー」の愛(神の愛)で「私を愛するか。」とペトロに聞いておられ、3回目に、「フィレオー」の愛(友愛)で再度ペトロにたずねておられます。これに対するペトロの返事は、3回とも、「フィレオー」の愛での返答となっています。イエスとペトロが当時話されていた言葉が、アラム語という説もあるので、このギリシャ語訳だけで考えて良いのかは多少考える必要があるかもしれませんが…。そして、それにもかかわらず、その後ペトロは殉教されます。

 

カトリックからみると、創世記にあるように、神が人を神の似姿として作られたこと(創世記1:26-27)、エレミヤ書31:33に描かれる、”すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す”(新共同訳)という箇所、また、神様が、神の霊を人に与えられたこと(エゼキエル書36:26)、そして、新約聖書ヨハネによる福音書1:1-14、コロサイの信徒への手紙1:6などにあるように、すべては御子によって作られた、という内容、

 

それから、ゼパニア書3章17節より、

“3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし”(口語訳)、


それから、エフェソの信徒への手紙4:6より、”すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(新共同訳)”また、エフェソ4:9より、”(キリストは)「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。(新共同訳)”

また、マタイ福音書25:40より、”『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(新共同訳)”という箇所や、新約聖書の使徒言行録2:1-4にあるように、人々に聖霊が降られたことなどが挙げられると思います。

 

また、新約聖書ヨハネ福音書15:12より、”わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(新共同訳より)”

新約聖書のヨハネの手紙第一の4:12より、”いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(新共同訳より)”という箇所があります。ここでの愛し合うとは、神の愛、アガペー(名詞形)、アガパオー(動詞形)での愛と思われます。

 

実際に殉教者などが起こることも、人の内にも神の愛があることを分かりやすい形で証していると言えるのかもしれません。個人的には、一人ひとりに与えられている魂や命のうちに、神様やイエスさまがおられるのではないかと思っています。

 

また、個人的には、プロテスタントであっても、ひとたび神の愛を自らの内に受け入れたなら、今度はその愛を自らの愛として人は生きていけるのではないかと僕は思います。

 

ゆえに、プロテスタントであっても、カトリックであっても、あなたの内に愛はある、と言えると僕は思います。

 

プロテスタントはより謙虚であり、カトリックは、より実存的とも言えるのかもしれません。なお、聖公会というのもあり、聖公会はカトリック神学を採用しながらも、司祭は結婚できて、女性司祭、女性司教もOKとなっています。