『司馬遼太郎が語る日本』
”室町時代と能”-③ ●司馬 遼太郎

✪勧進聖-②

法然が最初にレクチャーといいますか、私立学校といいますか、露天学校といいますか、それを開いたのは京都の黒谷(くろだに)であります。

さらに円山公園は当時、真葛原(まくずはら)と言われていましたが、真葛原でも人々にお説教をする。そこは聖の場所だったのですね。円山公園も、黒谷も、正式の坊さんは足を踏み入れない聖の場所だった。そこで法然さんが最初に浄土宗の思想展開をする。親鸞はその弟子ですね。日本仏教の思想的な大事業をした人は僧位僧官のある人ではなくてアウトサイダーであったということもおもしろい。

 

勧進というのは大興行のことを言いますね。室町時代の糺河原(ただすかわら)で行われた。

糾ノ森という所がありますね。京都市内の鴨川が流れている近くですが、昔はあのあたりの河原が広かったようです。

糺河原で行われた大勧進能は将軍主催のものであって、勧進といってもどこへ勧進したのかな。売り上げをどこへ還元したのかよく知りませんが、その後、非常に大がかりな興業のことを言葉が変化して勧進というようになりました。

 

催しの魅力のあるものは当時は能しかなかった。糺河原で能をやるといったら、それこそ伝達の能力は遅い時代でしたけれども、近畿地方全円が奮ってやってきたという感じですね。勧進という言葉が芸能からスポーツ、つまり相撲までだんだん延長しました。現在は相撲協会が定期的に場所を開きますが、私たちが子供の頃には何々勧進相撲といいました。

庶民相手に芸やスポーツを見せる場合、勧進という言葉をつけることによって、いわば言葉の上ではありますけれども、格式をつける。そういう伝統のいちばんの祖先が、おそらく糺河原の勧進でしょうね。

 

高野聖には、とにかく大変なしたたか者が多かったそうですね。カネを借りに行くのに往復の行きの電車賃しかないとき、向こうでカネを借りなければ絶対に帰れません。そういう絶体絶命に自分を追い込んでカネを借りに行くと気迫が生じるわけです。高野聖、いわゆる勧進聖もそのようですね。彼らは途中までの生活費しか持っていない。自分の舌一枚で講釈して、その講釈に感激した方からカネをもらう。それを公金と私金に分けた。そうでなければ自分の生活ができないわけですから、そうしたしたたか者が多かった。

 

そして生活力が旺盛なんでしょう。高野聖に宿貸すなといいますね。娘をとられてしまう。うっかり泊めると何をするかわからん。そういうしたたか者のエネルギーに満ちた勧進僧がいた。徳川家のご先祖もそうですね。