『司馬遼太郎が語る日本』
●室町時代と能について-司馬 遼太郎

✪和光同塵

✪足利義政は、「和光同塵」ということをよくいっていますね。自らの才知を隠して世俗に交わる。そして仏教的な意味ですが、みな一つの塵である、上も下もない。これが義政の基本的な思想でした。

当時は身分社会です。

それからのちの江戸時代でもそうですね。大名が江戸城で将軍に拝謁する。何べんも何べんも拝謁した人でも、将軍の顔を知らなかったそうです。

頭をあげられないものですから、そこに会話というものはありません。


日本の封建時代における身分関係は非常に形式的でした。田舎から出てきた大名はなかなか将軍に会えなかったのです。それでは将軍は孤独です。将軍だって誰かと話がしたい。義政の場合、文化人と話がしたい。

竜安寺の庭をつくったのは相阿弥(そうあみ)といわれていますが、そういう人たちと同じ床の上で話がしたい。義政はそれをぬけぬけとやった人でもあります。

 
官位のない人と一対一で対座して、春を語り、月を語り、花を語り、雪を語る。そのための抜け道が阿弥という号でした。

阿弥という号は阿弥陀さんの阿弥であります。正式に言うと、観阿弥も観阿弥陀仏です。それから世阿弥陀仏を簡単にして世阿弥といいます。

 
時宗をはじめたのは一遍上人ですが、この人は鎌倉時代の人であります。道後、今の愛媛県西部の人で、河野という大名の子として生まれ、発心した。仏教はそんなに難しいものではないと考え、極端な言い方ですけれど、南無阿弥陀仏ということを一生に一遍唱えるだけでお浄土に行けると言って廻った人です。

ですから一遍上人という人はチャーミングな人です。

この人の思想は、いま言ったような単純なことではないのですが、親鸞とつながるというか、ほとんど同じ思想を持った人でした。ところが親鸞のようには物をあまり書かなかった。

書きはしたのですが、死ぬ前に全部焼いてしまったようです。うれしい、うれしいで念仏を唱え、ほうぼうを歩きました。一遍さんにぞろぞろくっついて歩く人がたくさん出た。ですから踊り念仏と言われたりした。