『逆日本史-3』-樋口 清之
●大化の改新の失敗を計算していた中臣鎌足
✪役人は六時出勤、正午退出-①


✪階級を越えた恋の歌といえば、聞こえはいいが、このころから身分的な貴賎がはっきりしてきた証拠である。貴と卑、良民と賎民の別は、以前からなかったわけではないが、それが目立つようになってきたのである。

 

その原因は、聖徳太子の冠位十二階、十七条憲法の制定以来、大和朝廷の中央集権化が進み、豪族の官僚化が進行しはじめたからである。官吏が朝六時に出勤し、正午に退出するなどという、いかにも官僚的な規則が登場するのもこのころである。

 

舒明天皇は、いままでにない大規模な宮殿を大和国十市郡百済(奈良県北葛城郡広陵町)に建て、それと並行して百済寺の造営が行われた。これまでにも、聖徳太子の法隆寺、蘇我馬子の飛鳥寺をはじめ、多くの寺が建てられたが、天皇の詔勅によって建立された寺は百済寺が最初である。

 

中央集権的な官僚政治を進み、壮大な宮殿や寺造れば、税の負担が民衆にかかってくることは、大宝律令制定や東大寺造営ですでに述べたとおりである。そして、それが階級分化を早めていく。ただ、このころは奈良時代に比べてはるかに小規模で、大和朝廷による国土統一も未完成であった。

 

問題を、だれがこの方向に政治を進めていったかということである。中国の隋の政治制度をまねた中央集権的な官僚政治や、寺院造営など、藤原氏の政治方針に、あまりにも酷似していないだろうか。