『この国のかたちー四』ー司馬遼太郎
●徳についてー③

✪寒川鼠骨(さむかわそこつ)という人がいた。子規より7つ歳下の松山中学の後輩であった。京都の三高に在学中、すでに俳人として知られ、「日本」に投稿して掲載されたりした。
その後、学校を中退して、京都や大阪の新聞社につとめたが、なにかで居づらくなった。たまたま陸羯南が京都に来ていることを知って、面会し、「日本」に入社方をたのんだ。

でありつつ上京し、旧知の東京朝日の主筆の池辺三山を訪ねて、朝日にも入社方をたのんだ。三山はいい返事をした。ところが、東京へ帰った羯南が、鼠骨の入社について決めていた。

鼠骨に『随攷子規居士』(昭和27年、一橋書房刊)という著作がある。
それによると、そのころ「日本」は「校正係で月俸12円、それも優遇だとの事だった。京華日報は社会部記者で18円、朝日新聞は議会係で25円」とある。鼠骨は、明治人といっても若いほうだから、今風である。鼠骨は値踏みして決めようとした。

その時期、鼠骨は、病床の子規をたずねた。子規は当然ながら「日本」をすすめた。
その時の子規の談話は、鼠骨の遺稿のなかでも最もすぐれたものである。
子規は松山方言で、リズミカルに説諭した。

人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。入りの多寡は人の尊卑でない事くらい分かっとろがな。人は友を撰ばんといかん。「日本」には正しくて学問の出来た人が多い。(『随攷子規居士』)

子規がいうように、たしかに、「日本」は人材の巣窟だった。三宅雪嶺、長谷川如是閑、杉浦重剛、福本日南、内藤湖南などがいた。すべて羯南の吸引力によるものだった。
鼠骨は子規に言われるままに「日本」に入ったが、しかし経営不振は回復せず、さらには羯南その人が結核におかされ、明治40年、50歳で死ぬと、社はやがて消えるようになくなった。