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『文藝読本ー永井荷風』ー江藤 淳
●新帰朝者ー⑦

✪駒代がこういう「役割」から抜け出て「女」になり、性の世界に崩壊して行くのは、彼女が秩序の象徴である衣裳を脱ぎ捨て、髪を乱すときである。そのきっかけを荷風は巧妙に描いている。彼女が電話に立って座敷に戻ると客の姿はない。杯盤狼藉の荒涼とした人気のない座敷に自分を見出だした女は、一瞬芸者という「役割」を忘れてひとりの孤独な女に帰っている。歓楽の巷にときおりふと現れる覚醒の瞬間ーーその空虚な淋しさが女の心にしのび入っている。それは花柳界の浮き浮きとした虚構が、芝居のはねたあとの大道具のように薄汚れて見える一瞬である。

≪突然耳もと近く、若い芸者の声で「あら、いやょウーーあなたーーよして頂戴よウ。」≫それとともにあははははと二、三人で笑うしゃがれたお客の声。駒代はびっくりして四辺(あたり)を見廻した。再びお客の笑う声につれて女もともに他愛なく笑う。それは三坪ばかりの小庭を間にちょうど向き合いになった隣の待合の二階から聞こえるのであった。

駒代は突然何というわけもなく、ああ芸者はいやだ。芸者になれば何をされても仕様がない・・・・・そう思うとわたし見たようなものでも一時は大家の奥様と大勢の奉公人から敬まれたこともあったのに、と覚えず涙ぐまれるような心持ちになる。・・・・

ちょうどその時急がしそうに廊下を走って来た女中が、「あら、駒代さん、ここにいたの。 」と座敷の杯盤を取り片付けながら、「あちら、あの離れのお座敷ですよ。」