『天皇論』ー富岡幸一郎
●江藤淳との対話-①

---そういう問題というのは、いまも繰り返される。

 

もう一点、『昭和の文人』に登場する、平野謙・中野重治・堀辰雄に共通して出てくるのは父親の問題だと思います。父を恥じるといいますか、恥ずかしい父というか、そういうところが不思議に出てくる。これはもちろん、それぞれの作家の個人的な肉親という意味での父という意味もあるでしょうし、同時に、もうちょっと広く父性という一つのテーマにもつながっている。江藤さんは前に『成熟と喪失』で「母の崩壊」ということを言われたが、もう一つそれ以上に大きな問題として、「父」「父性」という問題をお書きになっている。

 

「成熟と喪失」の中で指摘されていますが、第三の新人に共通して見られる問題が、この父親の欠如ということですね。父を恥じ、恥ずかしい父のイメージを極力消していく近代日本の一つの流れの中で、第三の新人の文学がある。小島信夫の『抱擁家族』における父親の問題、江藤さんはこれを漱石の『明暗』と比較し、批評されている。私がいちばん象徴的だと思うのは、あの中では遠藤周作だと思います。つまり、カトリック作家あるはずの遠藤周作には、母的なものと言うか、より強い父を見出していくキリスト教のルター的なものと、逆のベクトルがある。

 

これは父の背後に超越的なものを見る感覚が欠けているという指摘を、江藤さんは第三の新人に集約的に現れている父性の欠如と、この『昭和の文人』で語られている父親を隠す、あるいは恥ずかしがるという近代日本人の共通した感性、このへんがひとつ大きな問題になる。当然、父親の背後に見るべき超越という問題は、天皇という問題にも関わってくる。

 

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